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『クスリ凸凹旅日誌』▶13話:大キレットって何?

2014年9月6日~13日
北アルプス槍ヶ岳から大キレット経由
奥穂高岳

 いよいよ大キレットである。キレットとはガレットのように食べれるわけではなく、キットカットのように甘くもない。英語ではなく切戸と書く。日本語である。岩でできた刀の刃のような稜線が大きく抉れているところをキレットという。
 我が国最大のキレットは北アルプスの槍ヶ岳から北穂高岳までの間にある大キレットである。ボクたちが最初に北アルプスに足を踏み入れたのは1995年。家族登山であった。娘は小学校5年生。我々は41歳の時だ。それから再び北アルプスに足を踏み入れるのは十数年後で、その間、子育てや仕事に没頭していた。
 全く山に行かなかったわけではなく、北海道の日帰り登山は楽しんでいた。北海道と北アルプスの山の一番の違いは、北海道の山は火山や土壌が盛り上がって山になった感じ。北アルプスは岩山である。人によっては女性的な北海道と男性的なアルプスとかいうが、岩のような女性もいるのでボクはこの表現に与しない。


 雑誌PEAKSの岩山特集で掲載されていた危険な岩山番付によると、大キレットは東大関だ。図の黄色いマークの所が我々の登ったところで、結構危ない山も登ってきた。
 中でも左の横綱である剱岳別山尾根を2年前に登っていたボクたちは少し自信をつけていたのかもしれない。それまでノーマーク(少なくともボクは)であった大キレットへの挑戦の気持ちが芽生えていた。ちなみに東の横綱「西穂高岳から奥穂高岳」の区間は最難関箇所で行く可能性はゼロ。生まれ変わってもボクは行くことはない。東西横綱のレベル差は東横綱が大鵬であれば、西の横綱は柏戸ぐらいの差になる。(分かるかなぁ? この違い) 
 ボクたちのルートは上高地から槍沢沿いに槍ヶ岳に登り、北側から大キレットを縦走して南側の北穂高岳、そしてその先の前穂高岳までの予定であった。一番最初に娘と行った時、槍ヶ岳は小雨が降っていて登頂を断念した。 今回初めて登頂して想像以上に怖かった。あの時、無理せずに登頂を断念した判断は正しかったと思った。
 頂上直下の槍岳山荘で昼食をとって、好天だったので次の南岳小屋まで歩を進めることができた。ここで一泊し、いよいよ大キレット縦走である。

 大きなV字の岩山の切れ込みなのだが、その落差は約300mでさらに底にはギザギザのピークが2ヶ所ある。それが「長谷川ピーク」と「飛騨泣き」と呼ばれる大キレットの2大核心部である。
 長谷川ピークは昭和20年代頃、大学生がここで滑落し、奇跡的に救出された場所だそうで、その人の名前が地名由来となっている。
 飛騨泣きは稜線が刀の刃先の上を歩くような感じで、左足は信州側(長野県)、右足は飛騨側(岐阜県)を跨ぐ感じのところで、特に飛騨側は岩から垂直に最大500mぐらいの落差に切れ込んでいる。思わず泣いてしまう「飛騨泣き」なのだ。
 危険要因は二つ。一つは滑落である。足が恐怖ですくんだり、ボクたちみたいな中高年は平地でもたまに躓くのに、こんなところで躓くと取り返しがつかない。二つ目は落石である。約300mぐらいを上ったり下りたり繰り返すので、岩場の落石も命取り。
 予防策も二つ。一つは「三点支持」という岩場の登坂技術。これは経験と練習で徐々に身についてくるものだ。二つ目はヘルメット着用。上から落ちてきた石が当たった経験はないが、岩場を登っていくと角度が急になると登ってる 頭上の岩に気がつかないことが多い。これが結構ヘルメットの傷となって残っている。


 ボクたちは天候に恵まれていた。雨が降っていたらまずだめだ。ボクは高所恐怖症ではないが、当日は適度に雲があり、眼下の風景が雲であまり見通せなかったので恐怖感に苛まれることがなかった。約5時間近くかかり、最後の急登をよじ登り、北穂高岳山頂に着いた。
 昇り降りしてる間、何か考えていたかというと思い出せない。きっと無心に近い状況だったのかもしれない。北穂高岳に着いた時もやったという達成感があったわけでもない。ただホッとした。
 お昼ご飯を食べて更なる連なりの涸沢岳を経由して穂高山荘が二日目の山小屋であった。しかし、この北穂高岳から穂高山荘までの間が大キレットより怖かった。あまり鎖もなく、岩場の急斜面をフリークライミングで降りていかなければならない箇所など息を抜けない。山の事故の多くは危険箇所で注意喚起されている場所より、そういう所を通過した後、ふと気が抜けた時、滑落したりする。


 計画は山中3泊4日。北アルプスの主峰をつないだ縦走でボクたちの登山史上、間違いなくハイライトであった。この計画は連れが作った。登山は連れがいなければこのレベルには至らない。ボクは連れに登らさせていただいたというおもいが強い。しかし海外旅行に関しては、連れはボクを頼りにしていて、海外では謙虚である。持ちつ持たれつ。一勝一敗、五分である。 
 さてこの山行は計画通りには終わらなかった。翌朝、山小屋を出発し、奥穂高岳山頂に立った。しかし前穂高岳にはいかずボクたちはそこから引き返しザイデングラートというルートを使って上高地に下山した。
 これはボクが前穂高岳に行くのを拒否したことによる。予兆は登山口の上高地のビジターセンターに掲げられていた登山事故の状況を示す案内板にあった。ボクたちのルート上では大キレットでも何箇所かあったが一番事故が密集していたのが奥穂高岳から前穂高岳にいたる吊尾根と呼ばれる箇所であった。その事が頭の片隅に残っていて、ボクはどうしても前穂高岳には行きたくなかった。連れにお願いして無理を聞いてもらった。我儘ではない素直なヒロちゃんにしては珍しいことだった。
 ボクは思った。この難関をすべてこなすのは出来過ぎである。槍に登り、大キレットを縦走し、奥穂高岳の頂上に立てば満願ではないか。 人間、体も心も健やかに生きるのには腹八分目がいい塩梅である。二分は次回に残しておく。それがボクたちを見守ってくれた神様、仏様、ご先祖様への礼儀。連れがその事を理解してくれたかは分からない。ただ大キレットの話をするといつもこのことを責められる。できれば大キレットの話は避けたいのだが、話さずにはいられないほどボクにとっても偉業で自慢のことなのである。
 そのことがちょっと辛い。    

『クスリ凸凹旅日誌』▶12話:アートの力は 人を救うか

伊藤若冲だけじゃないぞ!応挙も芦雪も揃って見事なコレクションを堪能しました

2013年8月26日~9月4日
後立山連峰 福島

若冲の衝撃
 本州に登山に出かける時の一般的なスケジュールは登山に2、3泊。これに予備日を1日つけて、前後の移動日も加えると一週間前後の日程となる。どうしても東京が起点となるので予備日を使わなかったときは東京での街歩きや美術館巡りに充てることが多い。
 2013年の後立山連峰縦走は残暑の8月下旬であった。スケジュール通り縦走を終えたボクたちは東京の娘と一緒に丸1日の予備日を福島への日帰り旅行を計画した。


 福島県立美術館で開催される伊藤若冲の展覧会を見に行くためである。この展覧会は東日本大震災の復興支援特別展と銘打たれ、若冲の世界的コレクターであるジョー・プライス氏のコレクションが一堂に展示される魅力的なものであった。プライス氏の意向で高校生以下は無料。大震災で傷ついた青少年たちをアートの力で励ます氏の思いが伝わるものであった。
 NHK「日曜美術館」で初めて伊藤若冲という江戸時代の絵師の存在を知った。プライス氏はアメリカで石油パイプラインの会社の2代目御曹司として生まれ育ち、若かりしとき日本画に魅せられて購入した一枚の絵がきっかけとなり有数の日本画コレクターとなった。その最初の一枚が伊藤若冲の『葡萄図』であった。 
 震災から2年経ったが福島原発の放射線被害は多くの故郷を離れざるを得ない人々を生み出していた。そんな中でも経済復興を牽引するため福島を観光することや地場産品の購入が叫ばれていた。東北新幹線で福島駅に着くと駅のホームに「あなたの旅が福島の元気です」とのフラッグが掲げられていた。


 一方、福島県立美術館の敷地内庭園には放射線で汚染されているので立ち入らないでください、との札があった。
 展覧会の目玉は若冲の『鳥獣花木図屏風』であった。その絵は会場の奥まったところの一室の一面、壁を独占する形で展示されていた。1cm四方のマス目が8万6千個グリッドに並べられ、そこに様々な鳥や動物、木や花がモザイク式にびっしりと描かれている。実在するものや空想のものなどが入り混じっている。
 ボクはこれまで色々な美術館や展覧会、そして教会などで様々な絵と出会ってきたが、今までで一番鑑賞時間が長かったのは間違いなくこの絵である。展覧会全体で約2時間。そのうちの1時間以上はこの絵の前にいた。この絵を見ながら色々なことが頭をよぎった。

フクシマで考えたこと
 絵から離れて全体を眺めると2幅の屏風に描かれている生き物の世界が何ともいえず愛くるしい。天竺(インド風)イメージという識者もいるが、確かに象や虎などのモチーフはそうだが、シルクロードで見た仏画の中にこんな形式のものはひとつもなかった。
 これは若冲のオリジナルなんだろうか? 近づいてみるとマス目の中にさらに複数のマス目が描かれているのが分かる。そして細かなマス目に塗り分けられた色の変化が全体の絵のグラデーションを作り上げている。一つ一つのマス目を見ていて飽きないのである。
 その時、ボクに一つの記憶が蘇った。高校生の時、「アサヒカメラ」という雑誌に掲載されていたデビッド・ホックニーの写真である。
 今でこそデビッド・ホックニーが現代美術をリードする芸術家の一人であることは知っているが、当時は新進気鋭の写真家とばかり思っていた。その写真はひとつの場面を数十枚くらいの写真で再構成している。一見コラージュのようなのだが、あくまで一つの場面を分割し再構成する写真の一枚一枚が大きかったり小さかったり微妙に傾いていたりするのである。
 人間の視覚は一枚の絵画や写真を見ていても常に一点の視点が移動しながら全体像を把握する。つまり全体を見ているつもりだが実は一点しか見ていない。これは生理的なことなので如何ともし難い。このことをホックニーは利用し、平面の全体を分割し、複数の視点移動で表現する習作を作っていた。
 1時間も同じ絵を見ていても飽きない一つの理由がホックニーと伊藤若冲の技法に共通する視覚の誘導方法にある。
 先人たちは遠近法や明暗法など様々な手法を開発し、表現の世界を切り開いてきた。「ジョイナーフォト」と名付けられたその技法にボクは妙に引かれ、自分でも同じ手法で何点かの作品を作った。
 伊藤若冲は極めて独創的な手法でいきものたちの姿を描いた。現実に存在する生き物も空想の生き物もこの1cmのグリッド単位を起点として描いた。ボクにはそれが脳細胞の集合モデルを見てるような感じがした。
 頭の中で空想されるイメージの脳細胞図を見ているような思いに駆られた。

  
 会場からロビーに出ると多くの人が列を作っていた。何かと思って前を見るとなんとプライス氏がお連れ合いの悦子さんと一緒にサイン会をしていた。ボクはあまりサインが欲しいとか思わないたちなのだが、プライスさんにひとこと声をかけたくて、その列に並んだ。
 あの時、ボクは彼になんと声をかけたかったのだろう。
「日本のためにありがとう」
「素晴らしいコレクションを見せてくれてありがとう」
「復興支援にご尽力ありがとう」等々。
 英語でいうフレーズを考えていたら美術館の係員がボクの前で「サインはここまでにします。よろしくご理解ください」とのこと。
「コチとら北海道から、それも後立山連峰を縦走し、東京を経由し、わざわざまわり道してここに来たんだぞ!」と叫びたい衝動に駆られた。
 その時聞き慣れた声で「お父さんカレーきたよ」との声。そうだ! 先に展示場を出た家族と館内の食堂で昼食をとる約束をしていて、ボクのメニューはカレーと先に決めて入場したんだよな。
 アメリカを代表する石油資本の御曹司に生まれたプライスさんの出自は原発事故で福島を離れざるを得なくなった若者の出自と宿命という点では同じである。選ばれた運命。一方、若き日のプライスさんが目にした『葡萄図』に魅せられ購入した彼の慧眼は自ら拓いた道であった。
 独学で日本美術を学んだプライス氏は美術商や専門家の助言とは遠く離れ、自らの眼力で当時全く無名であった伊藤若冲のコレクションを作り上げた。
 福島の若者たちに若冲はどんな衝撃をもたらしたのだろう。
 熱いフクシマの一日であった。

『クスリ凸凹旅日誌』▶10話:3千メートルへの挑戦

2011年10月12日~18日
南アルプス北岳 奈良井宿

北岳の手前稜線に出ると富士山が眼に飛び込んできた

登る山、見る山
 我々は富士山には登らない。理由は二つある。一つは日本で一番高いところに立ってみたいとか、一番先に何かを手に入れたいだとか、何事も一番に対するこだわりがボクには薄いのである。かつて民主党政権時に蓮舫さんが事業仕分けで高速コンピューター開発に関して、「なぜ2番じゃダメですか?」と質問し、一部に顰蹙をかったが、ボクもあの立場にいたら同じ質問をしたかもしれない。
 小さい頃は足が遅く運動会は昼食のバナナだけが楽しみであった。1番を競うとか、負けん気メンタルが重要な分野はどうも弱い。芸術や文化系の分野で、あっちもいいけど、こっちもいいよね、みたいな心持ちがボクのメンタリティの基盤であった。
 日本で2番目に高い山は北岳(標高3192m)である。我々の〈体の動くうちに山に行こう〉登山のはじまりは、この南アルプスの主峰がスタートであった。
 富士山のような成層火山でガレ場が続く単調な上り、一歩上がって二歩下がる、植物も少ない木もない、そんな登山道も苦手である。よって〈富士は登る山ではなく見る山だ〉という意見に与してしまう。

己の限界を知る
 もう一つは切実である。
 連れは山に関しては(いや運動全般に関しても)ボクよりハイレベルである。体力、俊敏性、いざという時の判断力等々。何もかもボクより上である。しかし人に完璧を求めてはいけない。彼女にも唯一といっていい山に関しての弱点がある。高度障害が出るのである。今までの経験では3千メートルを境に、体調によっては2千5百メートルくらいから頭が痛くなり、体がむくみ、気力が萎える。
 そのことを顕著に体感したのがこの時である。最初に滞在した山小屋は2500mほどで、特に変化なし。北岳にも登頂し、次の縦走する間ノ岳を目指した。この二つの山は標高第二位、第三位でこの縦走路は〈天空の散歩道〉と云われ、ここがハイライトであったが…。


 連れがいつになく言葉少なでうつむき加減になった。少し歩いただけで立ち止まり座り込む。いつもはボクの姿なのだが、頂上直下の山小屋に戻り、どうやら高度障害が出たということになった。小屋のスタッフにも色々気を使っていただいたが食事も喉を通らず、睡眠もままならず、症状は改善せず、結局そのまま翌朝下山とあいなった。
 最初に滞在した山小屋に戻って、外のテラスで休憩をしていると急に雰囲気が一変した。多弁でいつもの連れのリアクション。その変化を一言でいえば「手のひらを返したよう」。オノマトペで表現すれば「ヴァビ~ン!」と一気に快適モードに。お腹が空いたというのでとりあえず行動食を頬張り走るように下山し、麓の食堂でカレーライスとボクが注文した蕎麦も勢いよく頬張った。この露骨な変化。これが高度障害なんだなぁ。凄いなぁ。


 結局、縦走は北岳単独になったが、北岳はなかなか手強い山であった。季節は晩秋であったが高山植物の宝庫でもあり、北岳バットレスといわれる大岩壁も雄大で魅力的な山行を堪能した。しかし、もっとも感動したのは富士山である。森林帯を抜け、稜線に出て、くるっと振り返った時、ちょっと遠くだけど大きく見えた富士山の姿はまことに秀麗な美しさであった。
 いろいろな山に登った時も、遠くに富士山の姿が見えると何かしらの感動が胸にこみ上げてくるのはボクだけではないようだ。「あの奥に富士山が見えますよ」と誰かに伝えたくなり、伝えられた誰かも一緒に「富士山だ!」と感動をともにする。そう、富士山はボクたちにとっては「共感する山」なんだなぁ、と思った。富士山に登れないのは残念だ、とは思わないが、連れに高度障害がなければやっぱり一度は登っていたかもしれない。富士山の頂上でどんな思いを抱くんだろうな。できることより、できないことの方がおおいのが世の常。できないことを想像してみる楽しみ、というのも富士山は教えてくれる。

           

『クスリ凸凹旅日誌』●随想①私の旅スタイル

登山も海外もいつでもどこでもリュックご愛用(スペイン、マドリッド駅)

塩 幸子

●「荷物は背中に」がモットー
 どこに行くにもリュックにしている。どうも荷物を手にすると、右か左に偏りがちになる。
 リュックなら背中で左右対称だ。
 ウォーキング、スーパーへの買い物、便利だ。私の住む美原では遊歩道が周りをとり囲む。この道を歩けば、車が入ってくることはない。安心して歩けるが困りごともある。自転車だ。音無しで超スピードでいきなり追い越されるとドッキリだ。自転車は遊歩道で、我がもの顔で走る。万が一、追突されたらと思うと冷や汗ものだが、それをリュックがカバーしてくれると信じている。

● 旅では荷物は最低限がモットー
 登山以外の旅行の衣類は替え一組と決めている。このスタイルは自分との戦いに負けない意志がカギだ。
 旅の1日は歩き通しに近い形となる。特に海外では神経も使うのでクタクタで宿に入る。
 シャワーの後はまず洗濯だ。部屋には小さな石鹸が必ず付いている。洗濯物の手洗いはお手のもの。脱水は手とタオルだ。手で絞るだけ絞って、仕上げはタオルで挟んで絞る。部屋付きハンガーを使って干し、翌朝ドライヤーで仕上げて終了。疲れた1日の終わりのこの作業は、強い意志が必要となる。干された洗濯物を見て、深い満足感を得て眠りにつく。
 そして何といっても荷物を預けず機内直行が楽だ。リュックはそのために重さ(8キロ)、サイズの制限を守って荷造りする。着陸時もリュックを背に短時間で空港を出られる。ある時、一番の早さで税関のチェック時、荷物検査員に足を止められた。不定期の検査が入ったようだ。何の心配もないがドキドキする。調べ終えた検査員が「少ない荷物で旅慣れていますね」と声を掛けてくれた。ヤッターと思った。

● 旅行計画を楽しむがモットー
 本番前に楽しむ。それは重要なことだと思う。山は主に私、海外旅行は主に連れが計画する。だが役割分担は最小として、できるだけ同じように旅行内容を把握することとしている。
 楽しさと苦しさが入り混じった旅があった。九州旅行。もう25年余り昔のことになるが9泊10日の春の旅だった。今となっては懐かしさに、連れとこの旅の話に及ぶことが多々ある。
 娘は小学生。学校を10日間休んだ。長い休みになるので担任に手紙を書いて、娘に持たせた。
 幾日待っても反応がなく、痺れを切らして連絡を入れた。「勉強のことを考えると勧められません」これが返答だった。
 娘の荷物は教科書で一挙に増えた。〝ええよぉ、それなら〟という私の考えで、宿に入ってからしっかり娘は毎日時間割通りの勉強をこなした。完全に学校の勉強など忘れて、楽しめなかった。私の小心さが今でもひっかかる。
 桜はすでに終了していたが、春の九州はあれもこれもと、一つ一つ笑える思い出を私たちにもたらしてくれた。ただこの旅の計画は連れがたてた。帰宅して旅の順路がうまく思い出せなかった。計画にしっかり参加しなかった反省が残った。
 一つ一つの旅を終え、今のスタイルが出来上がってきている。後はもう体力の出来る限りの持続だと思う。

『クスリ凸凹旅日誌』▶3話:山々への気づき あこがれの北アルプス

1995年9月20~26日 燕岳、槍ヶ岳ほか
 塩 幸子

道を間違えやっとたどり着いた燕岳の稜線

私の山々への気づき
 40代半ば両膝に痛みを覚えた。登山を大きな楽しみにしていただけに憂鬱な体調変化に何かしないと覚悟を決めてウォーキングを始めた。健康関係のテレビ番組で、歩くだけではダメと気づき、膝周りの筋肉を鍛えることとした。
 朝、目覚めてから、夜、布団に入るまで、一つひとつの軽い筋トレを日常生活に取り入れた。安心して歩きたい、登りたい、下りたい、この一心だった。時間、場所、お金の心配なく日々生活の中のなかで続けたことが成功の要因だと思っている。
 40代の十年間登れない時期を過ごし、55歳の時に雌阿寒岳を痛みなく下りられたことに何よりホッとした。その後、連れと共に様々な道を楽しめてこられた。
 日々継続の力の賜物だった。

登山との出会い~初めての北アルプス
 小学校5年の時、友人宅で見たアルバムの写真に釘付けになった。「雌阿寒岳家族写真」、登山を私の内に大きな概念として受け止めた出来事だった。
 山とは深い緑、連なる沢山の木々では? 想像とは違う! 行ってみたい! 強く感じたあの感覚が忘れられなかった。中3の大雪山黒岳から始まり、現在までの山行は夏山中心で年数回の限りではあるがどれも思い出深い。
 近年は膝痛の心配が小さくなり、ここ数年間、続けて憧れのアルプスに行けたことが何よりも今の私を満足させている。
 高校生の時、図書館で『槍までの道』と題した雑誌の中の写真が目に止まった。それからは、すっごく北アルプス。ずっ~と北アルプス…だった。まず目に留まったのは天を突き刺す槍ヶ岳ではなく、「燕」岳。何でこの一字でツバクロと読むのか不思議だった。頂上あたりは奇岩の数々。山の頂は岩? それも白っぽい岩。この山を通過して槍に立てたら……。


 この時点で私は中学生の時、たった一度の大雪山黒岳登山経験しかない存在だった。憧れではなく夢のような北アルプスの山々。それから40年後、膝の調子も良好で雌阿寒岳を下れた私は、連れと燕から槍の計画を立てた。幾度も地図を見て山道を頭に入れた。「燕」の漢字も書けるぞと一応の準備として満足していた。充分とは思えないが、まあこのくらいでヨシとした。小5の娘を伴って三人で勇んで穂高駅に立った。中房温泉で一泊。翌日の好天を願い眠りについた。
 願った通りの晴れの朝を迎えて、整備された山道、途中の小屋で名物のスイカは食べられるかな? 辛い行程では楽しみが必要だ。一切れいくらかなぁ? と考えながら登り始めた。
 結構な登り時間が過ぎた。頭に入れた要所要所のポイントがなぜか出てこない。連れも変だと言い出し、ちょっと慌てて地図を広げた。大体、全く他の登山客に出会わない。登り人も下り人もいない。
 登山口を軽い気持ちで温泉客に聞いた〈一つ目の失敗〉。前日の下見を怠った〈二つ目の失敗〉。一瞬頭がくらっとした。まさかの間違い。登り口が二つあったのだ。幾度も地図を見たはずだヨ。下準備は十分だと思ったヨ。ドキドキしてきた。今更下れない。予定の1.5倍の登りになってしまった。
 しかしこの失敗が今も思い出に残る登山の一つになった。まずは稜線までの我慢だ。短いジグザグ急登の連続だった。数歩登って息を整える。何度も繰り返す。ふっと振り返ると富士が目に飛び込んできた。山歩きで初めて目にした富士だった。遠方だがその高さがよくわかった。嬉しかった。少し疲れがとれた。そんな気がした。

 燕岳から東沢岳を結ぶ稜線に出た。北アルプスの中心部が目前に突然現れた。沢を挟んで対峙する山脈の山々は薄いブルーに、点在する山小屋の赤い屋根、青い屋根。沢の下には湖が細長く光っている。高瀬湖だ。私にとってこの出会いが北アルプスの原風景となった。
 燕山荘で一泊。御来光を見て、客におねだりのイワヒバリを観察して、ゆったりとした朝の時間を過ごしているうちに、小屋の登山客は次の山を目指して誰もいなくなっていた。私たち家族が最後となってしまった。早出早着きが原則の山で、またしてもこの調子だ。
 薄氷の張ったなだらかな山道が続く。今ここにいるんだ、と現実の幸福感一杯に西岳まで歩く。槍は徐々にその姿を大きくさせた。西岳までのゆったりした道は終わり、アップダウンが厳しい山道となる。東鎌尾根だ。大きな岩場が続き槍岳山荘に着く。雲が湧いて陽が傾き、この日の槍ヶ岳登頂は明朝に持ち越した。翌朝、霧の中の槍の頂はどうも滑りそうだった。娘に怪我をさせてはと思いながらここまで来ていた。
 勇んで釧路を出てきたが、楽しみに浮き足立っているのはきっと私だけで、この登山で嫌な記憶が残り山登りはもうこりごりとは思われたくなかった。いつになくこの時の私は妙に慎重だった。
 石橋を飛び越える私。少し叩いて渡る連れ。叩いて壊れて渡れなくなる娘。三者三様の性格。慎重なのは大切だがこのコロナ禍の中、自宅アパートで仕事をしている娘は週一回買い物以外、外出してない様子なのだ。これはこれで心配。話を元に戻す。ふっ切れた思いだった。夢の北アルプスに来られたのだ。
 もう十分に満足していた。またの機会が必ずある、そう信じて上高地に下りた。