「『クスリ凸凹旅日誌~24の旅のカタチ』」カテゴリーアーカイブ

『クスリ凸凹旅日誌』▶10話:3千メートルへの挑戦

2011年10月12日~18日
南アルプス北岳 奈良井宿

北岳の手前稜線に出ると富士山が眼に飛び込んできた

登る山、見る山
 我々は富士山には登らない。理由は二つある。一つは日本で一番高いところに立ってみたいとか、一番先に何かを手に入れたいだとか、何事も一番に対するこだわりがボクには薄いのである。かつて民主党政権時に蓮舫さんが事業仕分けで高速コンピューター開発に関して、「なぜ2番じゃダメですか?」と質問し、一部に顰蹙をかったが、ボクもあの立場にいたら同じ質問をしたかもしれない。
 小さい頃は足が遅く運動会は昼食のバナナだけが楽しみであった。1番を競うとか、負けん気メンタルが重要な分野はどうも弱い。芸術や文化系の分野で、あっちもいいけど、こっちもいいよね、みたいな心持ちがボクのメンタリティの基盤であった。
 日本で2番目に高い山は北岳(標高3192m)である。我々の〈体の動くうちに山に行こう〉登山のはじまりは、この南アルプスの主峰がスタートであった。
 富士山のような成層火山でガレ場が続く単調な上り、一歩上がって二歩下がる、植物も少ない木もない、そんな登山道も苦手である。よって〈富士は登る山ではなく見る山だ〉という意見に与してしまう。

己の限界を知る
 もう一つは切実である。
 連れは山に関しては(いや運動全般に関しても)ボクよりハイレベルである。体力、俊敏性、いざという時の判断力等々。何もかもボクより上である。しかし人に完璧を求めてはいけない。彼女にも唯一といっていい山に関しての弱点がある。高度障害が出るのである。今までの経験では3千メートルを境に、体調によっては2千5百メートルくらいから頭が痛くなり、体がむくみ、気力が萎える。
 そのことを顕著に体感したのがこの時である。最初に滞在した山小屋は2500mほどで、特に変化なし。北岳にも登頂し、次の縦走する間ノ岳を目指した。この二つの山は標高第二位、第三位でこの縦走路は〈天空の散歩道〉と云われ、ここがハイライトであったが…。


 連れがいつになく言葉少なでうつむき加減になった。少し歩いただけで立ち止まり座り込む。いつもはボクの姿なのだが、頂上直下の山小屋に戻り、どうやら高度障害が出たということになった。小屋のスタッフにも色々気を使っていただいたが食事も喉を通らず、睡眠もままならず、症状は改善せず、結局そのまま翌朝下山とあいなった。
 最初に滞在した山小屋に戻って、外のテラスで休憩をしていると急に雰囲気が一変した。多弁でいつもの連れのリアクション。その変化を一言でいえば「手のひらを返したよう」。オノマトペで表現すれば「ヴァビ~ン!」と一気に快適モードに。お腹が空いたというのでとりあえず行動食を頬張り走るように下山し、麓の食堂でカレーライスとボクが注文した蕎麦も勢いよく頬張った。この露骨な変化。これが高度障害なんだなぁ。凄いなぁ。


 結局、縦走は北岳単独になったが、北岳はなかなか手強い山であった。季節は晩秋であったが高山植物の宝庫でもあり、北岳バットレスといわれる大岩壁も雄大で魅力的な山行を堪能した。しかし、もっとも感動したのは富士山である。森林帯を抜け、稜線に出て、くるっと振り返った時、ちょっと遠くだけど大きく見えた富士山の姿はまことに秀麗な美しさであった。
 いろいろな山に登った時も、遠くに富士山の姿が見えると何かしらの感動が胸にこみ上げてくるのはボクだけではないようだ。「あの奥に富士山が見えますよ」と誰かに伝えたくなり、伝えられた誰かも一緒に「富士山だ!」と感動をともにする。そう、富士山はボクたちにとっては「共感する山」なんだなぁ、と思った。富士山に登れないのは残念だ、とは思わないが、連れに高度障害がなければやっぱり一度は登っていたかもしれない。富士山の頂上でどんな思いを抱くんだろうな。できることより、できないことの方がおおいのが世の常。できないことを想像してみる楽しみ、というのも富士山は教えてくれる。

           

『クスリ凸凹旅日誌』●随想②松浦武四郎の古道を歩く

■武四郎と衝撃の出会い
 昔から武四郎に興味が有ったわけではない。阿寒湖温泉に赴任した時、鶴雅の語り部のアイヌのSさんと武四郎のお話をさせていただいた。話しているうちに「武四郎が釧路に来た時、布伏内にとまった処はオレの孫爺さんのところだ」というボクにとっては衝撃の告白が出て、歴史のなかの人物が、今の時代にもつながっているのを実感した。
 Sさんに武四郎ゆかりの場所をご案内していただき、釧路や阿寒、弟子屈のガイド仲間や研究者に声がけして1泊2日の学習会を開いた。このあたりが深みにはまる1合目といったところだったろうか。
 学習会の資料集めをした。そのなかに『幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷』(ⅠNAⅩ出版)という本があって、武四郎は晩年自分が足跡を残した寺社仏閣の部材を集めて一畳の書斎をつくったことが紹介されていた。このセンスに大いに刺激された。
 人間の活動を起承転結にたとえれば、ボクはちょうど〈転〉から〈結〉に向かう時期だ。人生の〈結〉をどう迎えるかに興味が有った。また、齢を重ね「われわれは何処からきて、何者で、どこに行くのか」という命題にも整理をつけた晩年をむかえたいとおもっていた。

■足跡のリサーチをはじめる
 武四郎の釧路の足跡を整理するため『久摺日誌』の現代語訳とその野帳ともいうべき『東西蝦夷山川地理取調日誌第8巻 東部安加武留宇知之誌』(秋葉実解読)を教科書に足跡をたどることにした。
 これにさまざまな関連書籍やインターネット情報、そしてSさんやガイド仲間たちの情報をまとめフィールドで検証した。『久摺日誌』はこの地を最初に紹介した観光ガイドブックという意味で周知であったが、野帳や『東西蝦夷山川地理取調図』という地図など、まさに足跡をたどる必携図書に出会い、この後、ガイド仲間と実際にフィールドを歩くということにつながって行った。
 阿寒のガイド仲間を中心に阿寒クラシックトレイル研究会を立ち上げ、実際に阿寒町から阿寒湖温泉までのルートを歩くイベントを開催した。全長約60㎞ですべてを一気に歩けるのは武四郎くらいなので、このルートを3つに分割し、阿寒町から上徹別までを「里の道」、上徹別からイタルイカオマナイまでを「川の道」、イタルイカオマナイから阿寒湖畔までを「山湖の道」としてそれぞれのロケーションにあわせたネーミングで歩くイベントを開催した。

■歩く文化を楽しみながら伝えるために
 武四郎足跡研究会ではなく、阿寒クラシックトレイル研究会としたのには意味があった。たしかにきっかけは武四郎で、ベースの情報も武四郎の探査がメインではあったが、調べていくうちに、武四郎も幕府が19世紀初頭に北方警備のため切り拓いた「網走山道」の実態調査が探査の目的の一つであり、その道は、アイヌが湖畔を狩場として使うにあたっての道でもあり、さらにたどれば獣道でもあったところだった。
 時代を現代によせれば、「里の道」などは雄別鉄道路線跡。さらには国道240号マリモ国道そのものが武四郎の歩いた道にほぼ沿ってつくられているなど、時代の層が幾層にも重なった道であることを知った。これぞクラシック!
 研究会のメンバーは湖畔在住の自然ガイドやアイヌコタンでアイヌ料理店を営むものや前田一歩園財団、ホテル従業員など、30~40代でこれからの阿寒観光を担う世代。観光が生活にかかわる者として、新しい観光文化としての〈歩く観光〉を意識した商品開発も目標の一つと位置づけた。
 まさに古きを訪ね新しきを知る「温故知新」をポリシーにした。阿寒湖温泉は北海道を代表する温泉観光地の一つだが、これまでのイメージが固定化し、なかなか新しいイメージを打ち出しにくいのが現状だ。豊かな自然を活かしたアウトドア基地阿寒を目指して、この研究会の活動が少しでも観光振興につながるように様々な試みをした。
 近年、フットパスやロングトレイルが各地で生まれてきている。道東でも、厚床をはじめとする根室地方のフットパスや北根室ランチウェイのロングトレイルなど魅力的な歩く場所が生まれているが、我々はその原点を「はじめに〈ル〉ありき」と表現した。
 つまり、アイヌ語で〈ル〉人や獣が踏み分けた道が原点にあるということだ。
 北海道の歩く道は、アイヌ地名に呼応する豊かな自然の多様性に溢れているとともに開拓の歴史を風土に刻んだところが特徴だ。時代に則した新しい活用方策を考えていきたいと思った。

■武四郎と今の阿寒をつなぐもの
 観光を主産業とする釧路、特に阿寒湖温泉では、インバウンドつまり海外からのお客様に魅力をうったえる観光まちづくりをすすめてきた。最近は、カジノ設置も市長選の争点になった。武四郎は阿寒湖を「実に一奇」つまりオンリーワンと記している。カジノはオンリーワンではなく、世界標準のリゾートには随所にある。
 オンリーワンの魅力を阿寒に温故知新で探すとき、ボクは武四郎の足跡とともに前田一歩園創設者前田正名を類比して考える。アイヌという先住民文化と火山カルデラを囲む針広混交林と湖沼群を抱える豊かな自然のなかにある阿寒湖温泉にとって、人と自然の共生関係をつくる基盤を担ったキーパーソンがこの二人だとおもう。
 二人の共通項をボクは3つの視点でまとめてみた。一つは発禁本。
 『近世蝦夷人物誌』(松浦武四郎著) アイヌの暮らし、人となりのエピソードを聞き取りした記録で今日、ルポルタージュとして高い評価を受けているが、幕府から発禁措置を受け、死後、お孫さんの手で再販。平凡社ラブブラリーから『アイヌ人物誌』として刊行されている。
 『興業意見書』 前田正名が明治政府で農商務省の若手官僚として全国の地域産業の実情と振興の方向性を示したものだが、地方の実情描写の生々しさと政府の施策批判、計画の実現性を巡り発禁措置になる。
 二人とも現実の直視と原因に対する批判が赤裸々すぎた。
 正名は興業意見書の最初に「人民生活の有様は衣食住ともに十分ならず、人にして今だ人と称すべからざる者多し」とし、人民の生存権を政策的に支援することを訴えた。武四郎が「開発より福祉を」と訴えた姿勢に共通するものがある。
 前田正名というひとは、「国力は地方産業を振興し、わが国ならではの地場産業製品を直接輸出により外国に売って、生活を豊かにしていくこと」という主張を生涯ぶれずに訴え、そのための施策を実行した。主張を変えなかったので、2度にわたり政府の官僚トップの立場を追われている。

■歩く人の系譜をたずねて
 2つめの共通項は「下野」つまり、野に下る、職を追われる、官から民へ、ちょっと官が上で民が下という差別的なニュアンスもある。武四郎は明治政府、北海道開拓使のアイヌ政策に不満をしめし、開拓判官の職を辞す。正名も政府内部の政策論争に破れ、その信念をつらぬくために地方の産業振興のため、民間産業団体づくりに奔走する。
 起承転結の「転」は下野であるが、見方を変えれば二人とも元々「野」=現場で輝く人であったとおもう。正名においては、農業関係はじめ10数に及ぶ産業団体の全国組織を結成する本領発揮の時期を迎える。
 3つめの共通項は「歩く人」ということだ。武四郎はいわずもがな、正名は全国を歩き回ったこの時期を「前田行脚」といっている。二人とも身長150㎝ほどの小柄な体躯でありながら、誠に頑強な身体を晩年まで維持している。
 正名は非職後に一時、山梨県知事をつとめ、ワイン産業を甲府に紹介するなど産業振興をすすめているが、いつも蓑笠に旅草履というアウトドアファッションで執務もしたため「蓑笠知事」、「布衣の農相」とかあだ名がついたそうだ。
「歩く人」をボクなりにいいかえれば、現場主義者ということになる。
「環境と人権」という視点でまとめれば、二人には直接的な接点はないが、アイヌの生存権や生活権、文化権というキーワードはそのまま『興業意見書』における正名の困窮する人民を救済するための政策支援構想とリンクする。
 アイヌ民族の持続可能性を武四郎は訴え、アイヌ地名という言語保存の形で後世に引継ぎ、正名の前田イズムは阿寒アイヌコタンという生活の場をアイヌに付与し、地域コミュニティを基盤にアイヌ文化を阿寒に根づかせる支援をすることになる。
 さまざまな批判もありながらも、アイヌに尊敬の念をもって讃えられている偉人であることは、この二人のヒューマニズムが本物であったからだとおもう。
 阿寒クラシックトレイルをガイドして阿寒湖温泉にたどり着き終点は、前田正名像がある前田公園になる。そこで締めくくりの話としてボクはこんな話をする。
 「阿寒の地で、自然を活かし、保存再生の森づくりをすすめている前田一歩園は、その財源を温泉地の土地代と温泉使用料に見出し、伐る山から見る山への政策転換を実践しました。このシステムは、皆さんが、阿寒に宿泊し、温泉につかってくれることで支えられ、阿寒の自然と人の共生につながる〈阿寒エコシステム〉といえるものとなっています」。

■温故知新の道を行く
 環境と人権というテーマで起承転結の「結」にしたい。
 武四郎の蝦夷地探訪が後世に残したものは、この地の風光明媚な観光的価値と、開拓資源の豊かさと交通網の可能性、そして開発政策よりアイヌ保護を優先するとの主張だった。一方、森林開発の夢を阿寒に求めた前田正名は阿寒の国立公園化の動きを受けて「阿寒の自然は、スイスの自然に勝るとも劣らず」そして、「阿寒の山は伐る山ではなく、観る山だ」との政策転換を果たし、今日の「復元の森づくり」につながる自然資源を観光の柱とする阿寒の基盤を築いた。
 この二人はともに先住民アイヌに対する人権家としての眼差しを持ち、それは阿寒におけるアイヌ文化につながっていると実感する。
 マリモ祭りはアイヌと和人が協働でマリモに象徴される自然保護を世に問った祭だ。
 毎年、全道から集まったアイヌとシサムが温泉街を行進し、立ち寄る先に前田正名像のある前田公園と前田光子が暮らした前田一歩園山荘がある。奉納の舞と祭りの報告とともに感謝の言葉が述べられる。
 明治39年に前田正名が取得した広大な阿寒湖周辺の森は、一方の視点から見れば、利権により得たともいえるものだが、「前田家の財産はすべて公共事業に供する」を家訓とする前田家のユニークな経営により、実質的には公有化されたも同然。さらにイズムを継承する二代目三代目により、一層厳格な規制の元で自然は活かされて来た。前田家のほぼ独占的な土地資源、温泉資源活用は、あらためて所有の意味をボクたちに問うているかのようだ。
 今日、流行言葉のようにサスティナビリティ(持続可能性)が叫ばれている。交流市民と定住市民が観光産業をとおして財の交換をする。観光資源である自然とアイヌ文化を持続可能なものとするため、行政と協働関係にある地域マネジメントシステムの一翼を担っているのが前田一歩園財団だ。それを支える思想の源流部にはアイヌ文化とともにある松浦武四郎、前田正名という二人の偉人がいるのだとおもう。
 現在の日本で、人と自然の共生関係をアイヌ先住文化に学びながら、持続可能な地域社会と自然環境を実現しているユニークモデルが阿寒湖温泉なのだ。これはオンリーワンかもしれないが、可視化が難しい。物語を説明するガイド機能が必要となる。
 このことをフィールドで体感してもらうが阿寒クラシックトレイルの魅力の真髄で、それを暮らしの糧として地域に定着させたい、というのが我々の活動の肝である。 

   

『クスリ凸凹旅日誌』▶9話:激安ツアーも使いよう

2009年10月23日~28日 台湾
2010年5月13日~17日 香港

香港の廟で熱心に祈る母娘、何を祈るか??

何処で儲けているのか
 家族旅行というのは娘が小さかった頃は、小学校を休ませて九州半周旅行や本州の山、北海道各地を旅して周った。我が家は泊まる所にはこだわらないのでユースホステルや民宿、ビジネスホテルなどが中心。あまり高級な旅館やホテルには泊まったことがなかった。
 社会人となって東京暮らしも少し落ち着いた娘を誘って、海外旅行に行きたいと思った。お互い休める期間が限られているので、仕事では行ったことがあるが遊びでは行ったことがなかった台湾と香港がデスティネーションとなった。
 宿泊ホテルには拘りがなかったのでネットで検索していると、東京離発着の二、三泊のフリープランがたくさん出ていた。いわゆる「激安ツアー」である。二泊三日もしくは三泊四日、航空券・ホテル、オール込みで39800円! どうやって利益を出すのだろう? そんな興味もあって激安ツアーを利用することにした。

観光客の立場になることも勉強
 台湾二泊三日、香港は三泊四日であった。いずれも一日目に昼食付きの観光バスツアーがついていた。それも日本語を流暢に話すフレンドリーな添乗員付き。さすがインバウンド観光客をたくさん扱っている台湾、香港の観光力を見せつけられたおもいである。仕事では、「北海道に来てください!」というお願いする側だが、実際に来る観光客の気持ちに逆の立場になると近づける。
 代表的な観光地を巡って、そこそこの昼食を頂いて、案の定ショッピングに案内された。台湾は健康枕、香港はお茶のお店だった。お茶はまだしも、健康枕は??? 観光業界の端くれにいるボクとしては「こんなところになぜ連れて来られるんだろう?」と思っていたであろう家族に「こういうところでショッピングをしてもらい、その売り上げの数パーセントが案内した旅行会社へバックするんだ」という業界解説。夕食前にバスツアーは終了するのだが、終了間際に夜のおすすめの食事やナイトクルーズの案内をして、そこに誘導する添乗員の話術の巧みさ。これなら「参加してもいい」と思わせる。
 結局、夜いっぱいお世話になった。この添乗員はきっと夕食のレストランや夜のバスツアー会社からもバックマージンをとっているのだろう。それが観光業界というものである。

異国の友人たちをおもう
 香港のツアー日程を一日増やしたのは、長年の友人である香港のカップルと一日過ごすためであった。釧路の観光協会を通してタンチョウの撮影に訪れた二人を案内したのが最初の出会いで、以降毎年のように釧路に二人は来た。
 折々に一緒に食事をしたり、タンチョウを見に行ったりした。二人はアマチュアではあるが世界中で野生生物を撮影している。阿寒国際ツルセンターで撮影したタンチョウとオジロワシのバトル写真が素晴らしいのでPR素材で使わせてもらった。気持ちよく快諾してくれたとても心根の優しい人たちだ。香港ではラムサール登録湿地の米埔を案内してもらった。1日50人の入園規制がある保護地区を彼らの手配で観察することができた。日本では珍鳥であるソリハシセイタキシギ(英名アボセット)の群れは今でも脳裏に焼き付いている。 


 思えば最初の海外旅行であった中国シルクロードでも香港の旅行者と数日行動を共にした。沢木耕太郎の『深夜特急便』はボクにとって旅のバイブルの一つである。『燃えよドラゴン』を見た時の興奮は今でも蘇る。そんなボクの〈旅の記憶〉の主要な舞台であった香港。
 そしてボクが観光振興の仕事としてインバウンド誘致に関わった時、最初に訪れ、活動のメインステージであった台湾。
 この二つの地が中国共産党政府の政治的影響下にあることを痛感する昨今である。昨日まで普通に楽しめた日常の世界が決して持続可能なものではないことを知る。
 この旅行でお世話になった「てるみくらぶ」という旅行代理店も倒産してしまった。テレビの中で涙ながらに謝罪する女性社長は、きっと旅行好きが高じてこの業界に身を投じた人なのだろう。被害者にとっては言語道断だろうが、どこか同情を禁じ得ない自分がいた。
 明日は誰にもわからない。しかし予兆というのは確かにある。それは歴史の出来事や、日常のなかでスルーした出来事が実は大きな変化の転換点だったのかもしれない。香港と台湾は現在進行形である。世界の大きなうねりの中で自分には何ができるのだろう。
 台湾や香港の友人たちの顔を思い浮かべながらそのことを考える。      

『クスリ凸凹旅日誌』▶8話:観光旅行のはじまりは 伊勢参りにあり

2010年12月17日~22日
箱根 伊勢神宮 群馬


旅行の原点をたどる旅
 日本人の旅行の原点はといえば伊勢参りになるそうだ。庶民が観光旅行として伊勢参宮を主目的とし、江戸中期においては日本人の約60万人、20人に1人が行っていたという推計値もある。
 日本人が海外旅行ブームに沸いた平成10年の統計値によると海外旅行の平均日数は7泊8日。伊勢参宮の江戸からの旅行日程は片道約15日、往復で30日ということだが、伊勢神社だけではなく京都や大阪を回って遊興をするので大体50日以上の旅行日数になったそうだ。東北や九州の農民だったらもっと日数を費やしたのではないか。
 日本人の「旅欲」は凄い。66歳のボクは食欲、物欲は明らかに衰えたが、旅欲だけは不思議と衰えない。日本人の旅のDNAを引き継いでいるのかもしれない。
 〈旅行の原点〉というのは、農民、庶民にとっての〈ハレ〉の消費行動である旅行の原型が、この時代にできたことによる。〈ホンネ〉と〈タテマエ〉が混在する日本人の行動様式が、伊勢神宮の参詣という真面目なタテマエと様々な景勝地や猥雑な遊興を楽しむホンネとが構成要素となって旅行文化として花開いた。
 お伊勢参りは伊勢神宮への参詣という巡礼の旅がメインであるが、その真相はさまざまな地域に寄り道する周遊型観光であり、ヨーロッパの目的地直行型の巡礼の旅とは異にする。
 我が家も何かしら神頼みの機運が盛り上がり伊勢参りに行こうということになった。観光振興の仕事に従事していたボクにとっても日本の代表的な観光地で行かなければならないところの一つが伊勢神宮だった。

 江戸時代は歩きが移動のメインだったので旅行者は当然ながら軽装である。基本的にバックパッカーである我々もここは同じ。
 我々のスケジュールは東京を出て、まず箱根で金時山登山をして、富士山を眺め。その後、新幹線に乗って名古屋で乗り換え、四日市で姉夫婦と夕食をとりながら談笑。そして伊勢に向かい翌日お伊勢参りをして、その日のうちに東京に戻る、というものである。翌日の日帰り群馬旅行も合わせても4泊5日の旅だがそれなりの周遊型観光である。これがそれほど忙しさを感じさせずにできてしまうのが現代文明の恩恵に預かる旅行の形なのである。

いよいよお伊勢参り
 伊勢神宮でははじめに外宮を参拝し、その後、地元ガイドにお願いして内宮を案内してもらった。地元の観光協会の紹介であるガイドさんはとても熱心に色々なことを教えてくれたが、今となっては何一つも思い出せない。ガイドがお客さんに伝える情報量の難しさ、我が身に置き換えて考えざるを得ない。
 熊野古道や高野山など歴史のある古道を歩いたり、史跡を訪ねたりする場合は、やはり旅行の後、関連書籍を購入し、読むことで旅を振り返り、記憶を呼び水に歴史を学ぶ。伊勢神宮も同様であった。ここに書かれている事実関係のバックボーンはすべて『江戸の旅文化』(神崎宣武著 岩波新書)による。つまり後付の復習の旅である。
 伊勢参宮の旅では「御師」という現代でいえば旅行業者、「旅籠」という様々な宿泊形態、そして旅行資金を調達する「講」という仕組みもできた。現在の裾野の広い観光産業の原型である。

 現象面では「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊りながらお伊勢参りをする「おかげ参り」といわれた熱狂的な集団行動があった。必ずしも日本だけでの特徴的な行動様式ではないらしいが江戸中期からほぼ60年前後の周期で発生した。「おかげ参り」は当時の推定人口の6分の1ぐらいの人が参加したという信じられない統計もある。
 なぜこのような行動が発生したのか二つの側面が考えられている。一つは「おかげ参り」が発生する前には飢饉だとか、一揆だとかの社会的な動揺があり、その人心をそらす政治的な操作があるという面。
 もう一つはお伊勢参りが地域経済の点で大きな役割を担っていく中で経済活動上の操作によるものという説である。困った時の神頼み。様々な噂や霊感話に心動かされる人心。そんな心の弱みを巧みに旅に誘導する経済フィクサーの存在。

 ボクは今、この原稿をコロナ禍下の2020年9月下旬に書いている。経済活動が大きく落ち込んだ観光地を支援するためにGoToキャンペーンという政治主導の景気浮揚策が進められている。
 今年3月から8月一杯ぐらいまでは、ハレの行動は自粛。ほとんど日常の中で悶々と暮らしてしてきた。9月下旬の4連休シルバーウィークにやっと様々な規制が緩められた。今年のシルバーウィークは観光地に人が溢れ、高速道路は渋滞し、交通機関は乗車率ほぼ100%という復調ぶり。ちょっと「おかげ参り」の熱狂と少し通ずるところがあると思う。
 8年にも及ぶ長期政権だった安倍政権が退陣し、その継承を訴え菅政権が発足した。何もしてないのに支持率はいきなり70%近くまで跳ね上がった。森友・加計問題、桜を見る会の疑惑、集団自衛権の行使、先の見えない沖縄基地問題・福島復興、スローガンばかりで成果が見えない施策の数々。でも過ぎてしまえば「ええじゃないか」。
 一候補者に1億5千万円を注ぎ込んだ選挙で選挙違反に問われてる前法務大臣を任命しても終わってしまえば「ええじゃないか」。
 すべて水に流して、リセットし、未来志向で行きましょう! それで「ええじゃないか、ええじゃないか」。

 過去に惑わされず未来志向の日本人。ええじゃないか、ええじゃないかと伊勢神宮を目指した日本人。熱狂の中で侵略と戦争の道を歩んだ日本人。
 ボクもお調子者でお祭りも嫌いではないが、大切なのはそういう己の姿を知ることである。
〈人間は進化しない〉と一般論で置き換えてしまうと日本人の責任回避に加担しそうではある。我々は集団的熱狂には気をつけなければならない人達なのである。
 お伊勢参り復習の旅でそんなことを考えた。

ガイドさんに親子揃って記念写真を撮ってもらいました


                 

『クスリ凸凹旅日誌』▶7話:東北の文化人たちの 足跡を訪ねて

2008年10月31日~11月5日
青森、岩手、宮城

宮沢賢治の初めてのブロンズ像だそうだ。一番雰囲気がよかった処(羅須地人協会にて)

東北文化人、七人の侍
 いかにも大げさなタイトルだが、初めからこれらの文化人の足跡をたどるのが旅のテーマではなかった。三内丸山遺跡と奥州藤原家の中尊寺がメインテーマだった。でも振り返ってみると東北地方はボクが影響を受けた多くの文化人たちの故郷であった。
 若い時から深い興味を持った人もいれば、この旅で初めて知った人もいる。
 青森では棟方志功の記念館や太宰治の気仙沼の生家「斜陽館」を訪れた。岩手の渋民村では啄木が教鞭をとった学校や資料館を見学。遠野は柳田國男の『遠野物語』の舞台。ガイドをお願いした方がえらく佐々木喜善という柳田のために地域の民話を収集した郷土史家にご執心ですっかり洗脳された。
 若い頃から大きな影響を受けた寺山修司の記念館は出生地の三沢市にあった。野外劇や路上パフォーマンスで常に既成の枠組みから外れた表現活動をしていた寺山修司の記念館を見ることは、ある意味〈寺山らしくない寺山〉を見ることになるのではないかという危惧があった。飛島に行った時、訪れた山形の土門拳も加え、七人の侍にした。


 東北旅行を振り返ってみるとそれぞれの業績を展示する施設を巡ることになった。行政に在籍した間、ボクは観光施設の整備に関わる仕事を経験させていただいた。米町ふるさと館、港文館、阿寒アイヌシアターイコロ、湿原展望台、マリントポスくしろ等々。
 観光振興セクションに在籍して本来業務として関わったもの以外にも一本釣りのような形でピックアップされて手伝った仕事もある。
 ボクに目をかけてくれた先輩管理職が「塩君、ちょっと手伝ってくれや」という感じの仕事である。今思えば釧路市役所も結構ラフだったんだなと思う。だからというか資料館や展示施設を見るといつも仕事目線になってしまう。こういう施設は観光客の入込も想定しているので観光資源としての役割も期待されている。
 人の業績を施設の展示で表現するのは本質的にその人の表現活動を裏切ることになるかもしれない。だからいうまでもなくその人を理解するためのひとつの入り口に過ぎない。
 寺山修司は職業を尋ねられ「職業は寺山修司」との名言を残した。多彩な才能が見る角度によって色合いを変える多面体だとすれば、寺山のそれは極めた先の球体である。こんな人を資料館で紹介するなんて至難の技だ。


 ボクが一番仕事で関わりが深かったのは石川啄木である。道路部門の仕事をしていた時、啄木が釧路に滞在していた時分、活躍していた米町地区の歌碑作りや道路路面のタイル装飾づくりなどを通し、啄木の業績に触れた。港文館は釧路に滞在時、新聞記者として活躍した旧釧路新聞社の社屋復元である。啄木をあまり知らなかったボクは、たった76日間しか釧路にいなかった啄木にどうして釧路の人たちはこんなに思い入れが深いのだろうと思った。ボクはあまり根掘り葉掘り一人の人間の足跡にこだわる質ではないので尚更かもしれない。
 しかし啄木の生涯に触れ、少し納得できた。26歳で早世した啄木が短い生涯にこれだけの業績を積み重ね得た、そのスピード感こそが天才の証だと思った。洋の東西を問わず、芸術家の天才とはそのスピードと革新性に裏打ちされていると思う。釧路滞在の短い間に複数の女性と交際し、歌を作り、新聞記者の仕事もこなす。啄木は人格的には問題の多い人間であった。
「友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ」という歌を寺山修司は「妻」が「犬」になっても成立する啄木の卑屈さが表れた歌だと批判した。確かに小樽に妻子を残し、釧路で遊興に耽っていた啄木は、妻を愛するボクから見るといいかげんな奴である。羨ましいけど許せない奴だ。でも渋民村の資料館で妻・石川節子の資料を見ていたらちょっと認識が変わった。
 この節子がなかなか魅力のある人で、風貌も個性的。伝記も面白かった。そんな意外な発見も資料館ですることはある。 

アイヌシアター建設秘話
 阿寒湖温泉勤務当時の仕事でアイヌシアターの建設があった。市役所に勤務していて劇場の建設に関わるなんて想像もしなかった。東京で演劇に関りのあった娘からも参考劇場の図面を取り寄せたりした。アイヌコタンの人たちは昔から構想を温めていたので予想図もあった。そこに描かれていた劇場は収容人員千人規模で「なにがなんでも、それはないだろう!」という感じであった。
 建築や都市計画サイドの職員とともに、アイヌコタンの人々や土地所有者の前田一歩園と具体的な劇場建設の打ち合わせをするのがボクの仕事であった。この建物の建設資金は釧路が昔、炭鉱町であった地域の再生資金として国から措置されたもので最初から上限枠があった。
 建築サイドの担当者はボクとセンスが近い人で、とりあえずアイヌの人たちの要望を全部組み入れた形で概算額をあげようということになった。その結果は6億7千万円ぐらいの総工費になった。上限額は4億である。倍近い開きをどう埋めるか、計画自体が頓挫する危機であった。色々切り詰めて額を圧縮して行ったが、どうしても舞台の緞帳を上げるための建物の高さをとらなければならず、そこが最後までネックになった。


 大詰めの交渉でアイヌの人が「ステージの高さを下げればいい」と言った。ステージは通常の70㎝を設計していたが、これを40㎝位まで下げれば建物の高さを想定内に収めることができた。ステージの常識的な姿を見直して議論は折り合ったのである。逆にステージを低くすることで演者と観客の境界が近づいた。舞台と円形の底部分のフラットなステージのマルチステージができ、客席スペースも含めパフォーマンスの広がりと小屋全体の一体感がましたように感じた。若い時、よく幸町公園や栄町公園でアングラ演劇のテント劇を観た。その時の一体感がアイヌシアターに生まれたように思った。
 釧路のサブカルチャーはジャズ喫茶「ジス・イズ」の小林東さんが中心であった。小林さんには様々な文化シーンでお世話になった。アイヌシアターの時も助言していただいた。「アイヌコタンの若い人たちの意見も聞いて」と言われた。いつも若い人の味方であった。

折り合いの哲学
 この時、ボクが得たもうひとつの大きな経験がある。普通こういう交渉事は行政的には、ある程度の時間をかけて協議し、結果としては〈妥協点〉だとか〈落としどころ〉だとか、着地点を探す。だから交渉事というのは合意のための譲歩が必要となる。そのため、高めにふっかけ自分の利に近い着地点を抑える。この妥協点だとか落としどころだとかいう言葉は役所文化にはよく使われる。
 ボクは交渉の場でアイヌの人が使った「折り合いをつける」という言葉が耳に残った。哲学的思考を感じた。どちらかがどちらかを屈服させるまで戦うのではない。そこには互いに譲れない正義や正当もあるのだろう。しかし、どこかに折り合いをつける考え方や仕組みが必要に思う。そういう知恵はアイヌ文化に限らず様々なマイノリティ文化の中にあるように思う。


 アイヌシアターができる前に屋外でアイヌの古式舞踊や創作パフォーマンスをやっていた時期がある。冬期間はマイナス20度ぐらいのところでやっていたこともあり、台湾からの旅行代理店関係者を案内していた時「素晴らしいけど寒すぎてホテルに帰りたい」と言われたこともあった。人間の生理を無視してはいけない、ということで屋内施設の建設になったのだが、今でもあの野外でのアイヌの人たちのパフォーマンスは忘れがたい素晴らしさだった。
 施設はあくまで二次的なものである。器を見るのに人は集まるのではない。人々が暮らした処、その風土、見た景色等々があってこその施設である。
 それらの背後にある世界との〈交信装置〉として様々な観光施設が生かされていくことが肝要だと思う。