『クスリ凸凹旅日誌』▶7話:東北の文化人たちの 足跡を訪ねて

2008年10月31日~11月5日
青森、岩手、宮城

宮沢賢治の初めてのブロンズ像だそうだ。一番雰囲気がよかった処(羅須地人協会にて)

東北文化人、七人の侍
 いかにも大げさなタイトルだが、初めからこれらの文化人の足跡をたどるのが旅のテーマではなかった。三内丸山遺跡と奥州藤原家の中尊寺がメインテーマだった。でも振り返ってみると東北地方はボクが影響を受けた多くの文化人たちの故郷であった。
 若い時から深い興味を持った人もいれば、この旅で初めて知った人もいる。
 青森では棟方志功の記念館や太宰治の気仙沼の生家「斜陽館」を訪れた。岩手の渋民村では啄木が教鞭をとった学校や資料館を見学。遠野は柳田國男の『遠野物語』の舞台。ガイドをお願いした方がえらく佐々木喜善という柳田のために地域の民話を収集した郷土史家にご執心ですっかり洗脳された。
 若い頃から大きな影響を受けた寺山修司の記念館は出生地の三沢市にあった。野外劇や路上パフォーマンスで常に既成の枠組みから外れた表現活動をしていた寺山修司の記念館を見ることは、ある意味〈寺山らしくない寺山〉を見ることになるのではないかという危惧があった。飛島に行った時、訪れた山形の土門拳も加え、七人の侍にした。


 東北旅行を振り返ってみるとそれぞれの業績を展示する施設を巡ることになった。行政に在籍した間、ボクは観光施設の整備に関わる仕事を経験させていただいた。米町ふるさと館、港文館、阿寒アイヌシアターイコロ、湿原展望台、マリントポスくしろ等々。
 観光振興セクションに在籍して本来業務として関わったもの以外にも一本釣りのような形でピックアップされて手伝った仕事もある。
 ボクに目をかけてくれた先輩管理職が「塩君、ちょっと手伝ってくれや」という感じの仕事である。今思えば釧路市役所も結構ラフだったんだなと思う。だからというか資料館や展示施設を見るといつも仕事目線になってしまう。こういう施設は観光客の入込も想定しているので観光資源としての役割も期待されている。
 人の業績を施設の展示で表現するのは本質的にその人の表現活動を裏切ることになるかもしれない。だからいうまでもなくその人を理解するためのひとつの入り口に過ぎない。
 寺山修司は職業を尋ねられ「職業は寺山修司」との名言を残した。多彩な才能が見る角度によって色合いを変える多面体だとすれば、寺山のそれは極めた先の球体である。こんな人を資料館で紹介するなんて至難の技だ。


 ボクが一番仕事で関わりが深かったのは石川啄木である。道路部門の仕事をしていた時、啄木が釧路に滞在していた時分、活躍していた米町地区の歌碑作りや道路路面のタイル装飾づくりなどを通し、啄木の業績に触れた。港文館は釧路に滞在時、新聞記者として活躍した旧釧路新聞社の社屋復元である。啄木をあまり知らなかったボクは、たった76日間しか釧路にいなかった啄木にどうして釧路の人たちはこんなに思い入れが深いのだろうと思った。ボクはあまり根掘り葉掘り一人の人間の足跡にこだわる質ではないので尚更かもしれない。
 しかし啄木の生涯に触れ、少し納得できた。26歳で早世した啄木が短い生涯にこれだけの業績を積み重ね得た、そのスピード感こそが天才の証だと思った。洋の東西を問わず、芸術家の天才とはそのスピードと革新性に裏打ちされていると思う。釧路滞在の短い間に複数の女性と交際し、歌を作り、新聞記者の仕事もこなす。啄木は人格的には問題の多い人間であった。
「友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ」という歌を寺山修司は「妻」が「犬」になっても成立する啄木の卑屈さが表れた歌だと批判した。確かに小樽に妻子を残し、釧路で遊興に耽っていた啄木は、妻を愛するボクから見るといいかげんな奴である。羨ましいけど許せない奴だ。でも渋民村の資料館で妻・石川節子の資料を見ていたらちょっと認識が変わった。
 この節子がなかなか魅力のある人で、風貌も個性的。伝記も面白かった。そんな意外な発見も資料館ですることはある。 

アイヌシアター建設秘話
 阿寒湖温泉勤務当時の仕事でアイヌシアターの建設があった。市役所に勤務していて劇場の建設に関わるなんて想像もしなかった。東京で演劇に関りのあった娘からも参考劇場の図面を取り寄せたりした。アイヌコタンの人たちは昔から構想を温めていたので予想図もあった。そこに描かれていた劇場は収容人員千人規模で「なにがなんでも、それはないだろう!」という感じであった。
 建築や都市計画サイドの職員とともに、アイヌコタンの人々や土地所有者の前田一歩園と具体的な劇場建設の打ち合わせをするのがボクの仕事であった。この建物の建設資金は釧路が昔、炭鉱町であった地域の再生資金として国から措置されたもので最初から上限枠があった。
 建築サイドの担当者はボクとセンスが近い人で、とりあえずアイヌの人たちの要望を全部組み入れた形で概算額をあげようということになった。その結果は6億7千万円ぐらいの総工費になった。上限額は4億である。倍近い開きをどう埋めるか、計画自体が頓挫する危機であった。色々切り詰めて額を圧縮して行ったが、どうしても舞台の緞帳を上げるための建物の高さをとらなければならず、そこが最後までネックになった。


 大詰めの交渉でアイヌの人が「ステージの高さを下げればいい」と言った。ステージは通常の70㎝を設計していたが、これを40㎝位まで下げれば建物の高さを想定内に収めることができた。ステージの常識的な姿を見直して議論は折り合ったのである。逆にステージを低くすることで演者と観客の境界が近づいた。舞台と円形の底部分のフラットなステージのマルチステージができ、客席スペースも含めパフォーマンスの広がりと小屋全体の一体感がましたように感じた。若い時、よく幸町公園や栄町公園でアングラ演劇のテント劇を観た。その時の一体感がアイヌシアターに生まれたように思った。
 釧路のサブカルチャーはジャズ喫茶「ジス・イズ」の小林東さんが中心であった。小林さんには様々な文化シーンでお世話になった。アイヌシアターの時も助言していただいた。「アイヌコタンの若い人たちの意見も聞いて」と言われた。いつも若い人の味方であった。

折り合いの哲学
 この時、ボクが得たもうひとつの大きな経験がある。普通こういう交渉事は行政的には、ある程度の時間をかけて協議し、結果としては〈妥協点〉だとか〈落としどころ〉だとか、着地点を探す。だから交渉事というのは合意のための譲歩が必要となる。そのため、高めにふっかけ自分の利に近い着地点を抑える。この妥協点だとか落としどころだとかいう言葉は役所文化にはよく使われる。
 ボクは交渉の場でアイヌの人が使った「折り合いをつける」という言葉が耳に残った。哲学的思考を感じた。どちらかがどちらかを屈服させるまで戦うのではない。そこには互いに譲れない正義や正当もあるのだろう。しかし、どこかに折り合いをつける考え方や仕組みが必要に思う。そういう知恵はアイヌ文化に限らず様々なマイノリティ文化の中にあるように思う。


 アイヌシアターができる前に屋外でアイヌの古式舞踊や創作パフォーマンスをやっていた時期がある。冬期間はマイナス20度ぐらいのところでやっていたこともあり、台湾からの旅行代理店関係者を案内していた時「素晴らしいけど寒すぎてホテルに帰りたい」と言われたこともあった。人間の生理を無視してはいけない、ということで屋内施設の建設になったのだが、今でもあの野外でのアイヌの人たちのパフォーマンスは忘れがたい素晴らしさだった。
 施設はあくまで二次的なものである。器を見るのに人は集まるのではない。人々が暮らした処、その風土、見た景色等々があってこその施設である。
 それらの背後にある世界との〈交信装置〉として様々な観光施設が生かされていくことが肝要だと思う。