第十一巻 ②ネイチャーツアーの適地~1

【第十一巻】落石から納沙布まで
バードウォッチャーは極東を目指す

扉写真は納沙布岬に寄せる流氷。上の写真は根室バードウォッチングフェアの会場。

▶特徴的な出来事の一つを紹介したい。釧路港に限らず北海道の港に大型客船が来航するようになって各地の港では「これからはクルーズ客船」とばかりに誘致活動に力が入っていた。ある日オーストラリアの旅行代理店の社長が来釧し、会いたいとのお誘いを受けた。
この会社は世界でネイチャークルーズのツアーを催行しており、南極や中南米、北極海などのツアーをおこなっている。社長曰く「極東の北海道からアリューシャン列島のベーリング海にかけてはネイチャークルーズの最後に残された適地」とのことで、計画は釧路港を出港し、北方領土を北上し、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクカムチャツキーまでの往路便と、折り返しの復路便の2回のツアーであった。参加者は各々出発地に集合する。
世界でネイチャーツアーを実施している現場の人から見ると、道東は、極東の手つかずの自然を活かしたツアーの発着地としての魅力を備えているということになる。
▶北方領土からアリューシャン列島に繋がるエリアには、本道では珍しいラッコやエトピリカが沢山生息し、〈アリューシャン・マジック〉というナガスクジラが集結するホットスポットがあったりする。
クルーズ船誘致の経済効果からみれば、寄港地より発着港の方が圧倒的に効果大である。北半球のクルーズの有名な出港地といえばカナダのバンクーバーであるが、世界から参加者はバンクーバーに集合し、カナダの自然を楽しんでからアラスカクルーズを満喫し、横浜港などで解散となる。


▶オーストラリアで初めて無酸素エベレスト登頂の記録を持つクリント・イーストウッド似の社長は「使う船はロシア船籍で、旅行代理店はオーストラリアなので北方領土は問題ない」と言っていたが、実施直前オーストラリアの日本領事館から、日本を出港し、北方領土でロシアの入管手続きをとることは日本政府としては好ましくない旨の要請を受け、〈釧路港から樺太のホルムスクに寄港し、ロシアの入管手続きを受けた後、カムチャッカに向かう〉という変更案でツアーを行うという情報が入った。
ボクは観光振興室で日本の受け入れ対応を実施する大手旅行代理店のランドオペレーターとともに、歓迎手続きや出港前の道東の日帰りツアーをサポートした。大きな船ではなかったので乗客は2百人前後だと思ったが、ほとんどが釧路港出港の数日前に、世界各地から釧路に入ってきて、釧路湿原や根室方面の自然を楽しみ、それから乗船し、釧路港を出発した。
世界のネイチャークルーズを複数の旅客船で運航している会社だけあって、航路のGPS情報をネットでライブ配信していた。どの船が今、どの海域を航行しているかがマップで一目瞭然であった。
ボクは船を見送った後、このネットをチェックしていたところ、船はホルムスクには向かわずいきなり色丹島に向い、北方領土沿いに当初の予定通りのコースを辿った……。(続く)

第十一巻 ①英国で野鳥の宝庫をPR

【第十一巻】落石から納沙布まで
バードウォッチャーは極東を目指す

扉写真は納沙布岬に寄せる流氷。上の写真はブリティッシュ・バードウォッチング・フェア(BBWF)の釧根ブースで解説する筆者。

▶ボクは根室観光協会の会員である。何故、釧路のボクが根室なのか。事の成り行きは以前の職場であった釧路市役所の観光振興室に遡る。
ボクはインバウンド誘致の仕事をしていた。21世紀に入って誘致は本格化し、台湾・韓国・香港をメインに団体観光客がチャーター便を使って道東地方にやってきた。〈2001年宇宙の旅〉ならぬ〈2001年道東の旅〉である。
観光客のほとんどは釧路・阿寒・川湯・知床という、いわゆる温泉観光地の滞在が中心であった。誘致を担ってきたのは、官民連携で空港の国際化を推進する釧路空港国際化推進協議会という組織である。メンバーには根室管内の観光関係者も含め、道東一円の自治体や経済団体も加盟していた。
ボクは誘致担当だったので航空会社や旅行代理店の関係者を根室、中標津などにも案内し紹介していたが、お客さんの方はやはり有名な温泉地に惹かれていた。あまりにも誘致実績に格差があったので何とかならないものか、と思案していたところに、ANAの在英国旅行代理店の新谷耕司社長が釧路市の観光振興室に英国からはるばるやってきた。
▶新谷さんはヨーロッパ駐在の日本人を中心に諸外国向けのツアーを企画催行している会社の責任者であった。同時に、とびっきりのバードウォッチャーで、道東には何度も足を運んでいる熱心なバーダーであった。確かに根室・釧路は日本で記録された野鳥約6百種の内、350種ほどが観察されている国内のバーダーには知れ渡った〝野鳥の楽園〟である。
氏曰く「道東の探鳥地としての魅力をヨーロッパや世界のバードウォッチャーに紹介したい」。その熱意は並々ならぬものであった。バードウォッチャー誘致であれば、一般観光客がこれまであまり足を向けなかった根室や野付、羅臼と、釧路のタンチョウも併せて道東のネイチャーツアーの魅力を発信するには好都合。協議会も何とか説得し、これまではアジア圏の航空会社や旅行代理店にプロモーションするのがメインだった活動の中に、英国での世界最大のバードウォッチングフェスティバルであるブリティッシュ・バード・ウォッチングフェア(以下「BBWF」)への参加が盛り込まれた。

BBWFは世界最大のバードフェアで世界から誘致に来る地域、代理店をはじめ芸術・文化・保護活動の団体など約4百のブースに旅行関係者から一般市民まで集う。


▶近年、道東のネイチャーツアーの魅力は世界的に評価されてきている。アドベンチャー・トラベルの誘致も進められており、にわかにネイチャーツアーのデスティネーションとして欧米の旅行代理店やツーリスト達にも注目されてきたが、その先駆けとなったのはこのBBWFへの参加であった、とおもっている。
BBWFには2005年から出展し、ボクも最初の年に参加した。しかし、釧路空港国際化の主軸は東アジアのチャーター便誘致だったので協議会が中心となった参加はできなくなった。
けれどもこの活動は、根室を中心に道東の自治体や霧多布湿原トラスト、釧路市タンチョウ鶴愛護会などの民間団体が参加し、10年間続けられた。
この間、新谷さんの筋金入りぶりはパワーアップ。ANAを早期退職し、なんと根室の観光協会に就職。根室に単身赴任となった。観光協会では探鳥地としての受け皿の魅力をアップするために、観察小屋(ハイドという。hideは「隠す」という意味)の設置や、海洋クルーズの運航開発、根室バードランドフェスティバルの開催等を手がけた。ハイド作りは本場英国から図面を取り寄せるこだわり。冬鳥観察が最適な真冬に根室を訪れたい方にとって、身を切る寒さの中で野鳥観察をするのはそれだけで試練だ。観察小屋ができたことで自分の身を寒さから守るとともに、野鳥にも無用なプレッシャーを与えない、そういうバードウォッチングの本格的な楽しみ方ができるようになった。現在、根室には半島各所に5箇所のハイドがある。
クルーズは落石の漁業協同組合と協働し、一次産業と三次産業の連携事業として地域振興にも貢献した。年間クルーズ利用者は、コロナ禍の前では半数以上が海外からのお客さんという盛況ぶりで、成果も着々と上っている。(続く)

根室市民の森ハイドで快適にバードウォッチング

第十巻 ③岬めぐりと地名めぐり

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

霧多布岬の西側に位置するアゼチ岬から小島と奥の嶮暮帰島を遠望する

▶自然景観としてもっとも特徴的な海岸線の「岬めぐり三昧ツアー」をご案内したい。
山本コウタローのヒット曲「岬めぐり」(1974年)はバスで周ったが、この海岸線の岬めぐりは残念ながら車で巡るしかない(歩いてもいいですが…)。尻羽岬から霧多布岬までの直線にして約35㎞にある10の岬をご案内する。ベストテンは通常多くの中から選ばれた十箇所になるが、ここはten of all.ではなく、all of ten.である。
▶西端から順に並べると…
①シレパ岬~先端まで遊歩道あり。厚岸湾と太平洋の眺めが素晴らしい。
②ノテトウ(岬)~標高75mの御供山には「お供山展望台」があり、厚岸湾、厚岸湖をはじめ厚岸町の市街地を一望できるビュースポット。現在の厚岸本町市街地は埋立で出来た土地。
③バラサン岬~国泰寺の裏山という感じ。急な登りを詰めると厚岸湾が広がる。
④愛冠岬~突端に「愛の鐘ベルアーチ」。これを鳴らすとアイ(愛)が叶うのだとか…? 
アイヌ語由来は〈届かぬアイ(矢)〉だが…。
⑤アイニンカップ岬~愛冠と同じアイヌ地名由来(矢の届かぬ処)車道からは往復2㎞以上の山道を上り下りしなければならないので秘境。(ボクも行ったことがない)
⑥チンベノ鼻~あやめヶ原のある岬。6月下旬から7月にかけてのヒオウギアヤメの満開が見もの。花がなくても展望台からの絶景を楽しむ。
⑦涙岬~海に向かって広々とした丘を散策路が伸びる。断崖の展望台から乙女の横顔が浮かぶ。
⑧アイヌ岬~先端には行けず藻散布から眺める。人(アイヌ)の横顔に見える。
⑨アゼチ岬~展望台から望む琵琶瀬湾の絶景。静かな岬で物思いにふけるには最高。
⑩湯沸(霧多布)岬~突き出た半島の東端が湯沸岬で西端がアゼチ岬。散策するのも良し。ゼニガタアザラシやラッコも運が良ければ出会える。


▶岬めぐりの地名めぐりは、アイヌ地名、漢字変換地名、和名と多種多彩。
シレパ岬は尻羽岬と漢字表記もされるが、アイヌ語由来はシリ・パ(地、山の・頭)。和名表記が尻なのはアイヌと和人の感性逆転。ノテトウ notetu は岬そのものの意味。他にも岬を表わすアイヌ語はエトウ、シレトウ、ノツ、エンルム、シレパ、エサシなど。道内の岬を思い浮かべてみてください。
バラサンは「広い柵」という意味や、「野獣を捕る平落としという罠」のことでもあると言われている。この岬の岩層が平落としに似ていたため、厚岸の部落には魔物が近寄らなかったとの伝説がある。(厚岸町HPより)
▶愛冠とアイニンカップはアイヌ語由来は同じで、アイカプaikap で「不可能、出来ない」という意味なのだそうだが、武四郎は『西蝦夷日誌』で、石狩のアイカップについて、「昔し此処の土人此の岩の上より矢(アイ)を放ち、寄手もまた下より矢を放ちしが、互に当らざりし故に号しなり。アイカツプとは出来ざると云事を云也」と記している。また、地元アイヌの伝説では、「ツクシコイのアイヌとアッケシアイヌの戦いで崖の上のツクシコイに対して、下からアッケシアイヌが矢を討ったがとどかなく、敗走したところから、その高い崖をアイカップ岬と言うようになったという」(『釧路・昆布森沿岸・厚岸・地名探訪』釧路アイヌ語の会)
石狩のアイカップも愛冠と当て字されている。ちなみに10の岬の標高は、厚岸東岸の愛冠、アイニンカップ、チンベノ鼻は80m前後。以西の岬が50m以下なので、矢も届かむ大崖と云ってもいいのだろう。
▶乙女の横顔を涙が落ちる様を言い表す涙岬。20年ぶり拝見したら、何となく横顔が少しやつれた感じ。近年マイブームの元となった地質のガイドブック『道東の地形と地質』(前田寿嗣著)は、「岬と花の霧街道」の新たな魅力を引き出してくれた。これによれば涙岬は霧多布層という6600万~5600万年前の古第三紀暁新世に海底に堆積した根室層群の地層で、れき岩と砂岩で出来ている。ちょっと脆いのかもしれない。少し崩れて乙女も熟女になったのかも。
同じ横顔でもアイヌ岬はしっかりした男顔。アイヌは「人間」という意味だから、こんな象徴的な地名をはたしてアイヌが付けたのだろうか? 他にはない地名なので、これは和人がこの形状を見て付けたのではと推察する。
▶アゼチ岬は当然、アイヌ地名と思いきや、畦地さんという方の名前が由来のようで。釧路湿原にもキラコタン岬と並んで宮島岬があるが、これも土地所有者の宮島さんからの名前由来。
ベストテンのトリは霧多布岬。国土地理院の地図では「湯沸岬(霧多布岬)」という表示である。キータプ ki-ta-p (茅を・刈る・処)の当て字だが、霧多布とはいかにもこの地の風土を表わしている地名ではある。なぜ、湯沸と併記されるのか。トープツ to-put又はto-putu,puchi は湖(沼)の・口を意味する。道東にも濤沸、十弗がある。岬の地図をよく見ると浜中市街地から灯台を目指し登り路を直進し、下った先の海岸に集落があり、小さな沼がある。そこに湯沸の表記があり、沼から小さな流れが海に注いでいる。岬は昔は島であった。松浦図でも陸地と分離してキイタツプとトウフツという表記がみえる。

琵琶瀬湾周辺のアイヌ地名と陸繋島の様子

▶『道東の地形と地質』によれば、霧多布の市街地は、かつて島だった湯沸につながる砂洲の上にある。これを陸繋島と呼び、嶮暮帰島にも砂嘴が出来ていて、これが満潮時にも繋がると砂洲になり、琵琶瀬湾には2つの陸繋島が対をなすことになる。さらに今から6000~5000年前の地球が温暖だった時期には琵琶瀬、嶮暮帰島、湯沸が一つ続きの細長い半島で、霧多布湿原は「古琵琶瀬湾」と云われる大きな内湾であった。これは釧路湿原も同様に「古釧路湾」と云われる内湾でその後の寒冷化により、徐々に海面は後退し、湿原が形成されてきた。琵琶瀬湾の場合は浸食により分断されて現在の島の並びになった。
この地形の生い立ちをみると、釧路と厚岸は自然環境や地域の発展過程は兄弟のようでもあり、姉妹のようでもあり。姉妹都市、姉妹港はそれぞれ違うので、ここはいとこ同志ということで、これからもよろしく。
海あり、山あり、湿原あり、人の歴史あり…。多種多彩とはまさにこの地域のこと。掘り起せばまだまだザクザク情報が出てくるとおもわせる厚岸から霧多布への旅であった。(終り)

あやめケ原から東側の海岸線

第十巻 ②古の国際交流

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

仙鳳趾から舟で厚岸会所についた様子を伝える『北海道歴検図』のアッケシ図(部分拡大)

▶17世紀から19世紀にかけては、ロシアの南下の動きや諸外国のアジア進出と通商要求が蝦夷地の周辺でも賑やかになってきた。厚岸周辺でも様々な出来事があった。時系列で追いながらこの前後の厚岸が海の玄関口としていかに重要な拠点であったかをおってみたい。
ジパング(日本)に金銀を探して、フリース船長率いるオランダ船カストリウム号が厚岸に寄港したのは1643年。その航海記録には当時の厚岸の様子が記されている。18日間の滞在中、アイヌとの交流もあり、牡蠣とハマナスの実がアイヌから船に贈り物として届けられている。クスリの初見はその航海日誌にあるが、フリースは厚岸湾をグーデホープ湾(希望湾)と名付けたほか、各所に地名をつけ、見聞記をオランダで発表するなど、さしずめ〈オランダの武四郎〉。
時は経ち1779年、愛冠岬から東側を望む海岸の筑紫恋にロシア人シャバーリンを長とする一行が交易を求めてやってくる。その案内をしたのは後にクナシリ・メナシの戦いで蜂起した国後アイヌの長であるツキノエであった。

筑紫恋の上陸したシャバ―リン一行の様子を伝えるオランダの文書


▶ロシアの商人たちは千島列島に沿って南下しはじめ、アイヌとの交易が進められていくがその動向に幕府は危機感を抱き、1785年に大規模な蝦夷地調査を行う。その拠点が厚岸であり、アイヌのリーダーであるイコトイが案内役を担った。一行には探検家・最上徳内もいた。1789年に場所請負人に不満を持ったアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いが勃発するが松前藩の鎮圧により国後のリーダーであったツキノエは同族と共に、大きな打撃を受ける。
▶1792年にロシアの使節アダム・ラックスマンが国書を携え根室に行ってくる。翌年には厚岸を経由して松前に上陸し幕府と交渉を行う。蝦夷地探訪の先駆者である最上徳内は生涯9度も蝦夷地を探訪し、1798年には択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建立し、領土を示す。
危機感を高めた幕府は1799年に松田伝十郎が中心となり政徳丸で江戸~厚岸の航路を拓く。この航路開拓は蝦夷地を経営する奉行所を箱館ではなく、厚岸にする幕府の意向があった。江戸・東北・蝦夷地を海路で結ぶ「東海路構想」は実現しなかったが、厚岸が江戸時代蝦夷地第一の湊といわれた証を示している。1805年から6年にかけてロシアのレザノフの通商要求を拒絶したことに端を発し、露寇事件が勃発。幕府はロシアへの対応を巡り極度の緊張状態に陥る。
▶その後、ロシアがナポレオン戦争のロシア戦役に対応するため、しばし極東は平安を取り戻すが、1821年に幕府から再び松前藩の管理になったのにあわせるかのように、再び外国船の動きが活発になる。1831年には羨古丹沖(浜中湾)に現れた外国船が上陸し、厚岸会所の役人、アイヌらと戦闘となる。この船はオーストラリアの捕鯨船と伝えられている。1844年にはフランス船がバラサン沖に出現し、食料燃料を補給し、何事も起こさず湊を離れる。1850年にはオーストラリアの捕鯨船イーモント号が末広沖で難破し、乗組員32名が厚岸の人々によって救助された。これが縁となり厚岸とオーストラリア、クラレンス市とは姉妹都市提携を結ぶ。禍福は糾える縄の如し。この交流は今日まで続く。
▶クラレンス市はオーストラリアといっても、大陸の南東部に位置するタスマニア島の街である。タスマニア島といえばハシボソミズナギドリの繁殖地として有名。この海鳥は、最も長距離の渡りをする鳥として知られ、5月の下旬から6月にかけては厚岸沖から根室沖、知床を大群で通過し、ベーリング海から北極海まで約32000㎞を渡る鳥類の最長フライヤーである。人も野鳥もオーストラリアとは縁が深い。
1853年ペリーの黒船が浦賀に来航。翌年、幕府は鎖国を解き、開国。長崎、横浜とともに蝦夷地では函館が開港し、幕府は蝦夷地の管理を再び松前藩から直轄地に移すことになる。(続く)

世界の海を支配した17世紀のオランダの様子を展示したアムステルダム国立美術館

第十巻 ①厚岸の栄光と凋落

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

扉写真はあやめケ原から西側の海岸線 海霧が立ち込める「岬と花の霧街道」 上の絵図はアッケシの図(『東蝦夷図巻』1857 北海道大学北方資料データベース)

▶小学校の頃、釧路の位置を厚岸と間違えて覚えていた。身体の中心が臍ならば、それを断面から見たらきっと厚岸湾みたいに窪んでいて、さしずめ奥の臍のゴマは厚岸湖の牡蠣になるのかも。
厚岸は東部太平洋沿岸の地図上では、ヘソのマチに見える。昔から交易や交通の拠点であった。松前藩が成立した1604年には既にアッケシ場所の設置が記されているが、以前よりアイヌの人々にとっては東の拠点であった。その時期は蝦夷地を支配していた松前藩の交易船も厚岸には年に一、二度来るのみで、厚岸に集まるのはもっぱら周辺のアイヌであった。釧路や根室そして千島のアイヌたちも厚岸に集い交易を行ったのだろう。

現在の厚岸湾から浜中湾の海岸線
松浦図で比較すると外観はほとんど現況図とかわらないが、霧多布岬は島になっている


▶アイヌが反乱を起こした大きな戦いの一つにシャクシャインの戦い(1789年)がある。この戦いには白糠から以東のアイヌは参加しなかったようで、厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちはその独立性を維持していた。
18世紀から広い蝦夷地を支配するために松前藩は場所請負人制により商人の取引から上がる運上金を藩の財源とした。このため本州から商人たちが蝦夷地に進出してきた。道東においては、飛騨地方の木材商・飛騨屋久兵衛が1774年以降、漁業や木材資源を産出するため進出した。この場所請負人によりもたらされた劣悪な労働環境で虐げられた国後のアイヌたちが蜂起した。クナシリ・メナシの戦い(1789年)である。
▶この頃のアイヌの人別帳によれば釧路の人口は52軒252人。厚岸は約2倍の5百人ほど。厚岸が蝦夷地東部の中心にあったことがうかがえる。釧路と厚岸の拠点機能の立場が逆転するのはクナシリ・メナシの戦い以後である。文化6年(1808)の調べではクスリ場所は1384人、アッケシ場所は874人、トカチ場所は1034人とあり、クスリ場所が東部の地区においては最大の拠点となっている。
▶クナシリ・メナシの戦い以前は剛強と恐れられ、高い独立心を誇った厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちは、この戦いの敗北後、松前藩への従属と幕府の撫育方針により勢いを失う。東蝦夷地のアイヌの拠点であった厚岸は疫病(天然痘)や大地震もあり著しく衰退し、安政4年(1857)には201人、明治4年(1871)には159人まで減少する。
ちなみに武四郎は戊午日誌に来釧時(1858)のクスリ場所の人口を「当領内家数237軒、人別1321人(男649人、女672人)有と。其内当会所元に人家75軒、人別385人(男189人、女196人)。右渡し場の傍と会所の前なる岡の傍に有たり。」と記している。釧路は、釧路川河口に港が拓け、周辺の漁業、木材、鉱物資源が集積するマチに成長する。
▶最新の人口データでは釧路市は16万人。厚岸は釧路管内では、釧路町に次いで第3のマチではあるが人口は9千人ほどである。厚岸の恵まれた自然、特に厚岸湾と厚岸湖が織りなす地形と、環境の豊かさは狩猟採集と交易が生業の中心であった時代のアイヌ民族にとっては拠点にふさわしい処だったのであろう。
▶さて仙鳳趾から図合船による渡しで厚岸湾を横断し、厚岸会所に着いた武四郎は初航1845年時には内陸の別寒辺牛湿原から風蓮川沿いに風蓮湖岸の内陸ルートを行く。第6回目の1858年には会所から再度、船で霧多布岬を廻り、現在の浜中湾榊町(アシリコタン)あたりに到着、そして海岸沿いに根室に向かう。武四郎が見た厚岸は既に黄金期から衰退の一途をたどりつつあった厚岸であった。
▶松浦図と現在の地図を比較するとこの海岸線の地形がほぼ一致するほどの完成度である。
北海道の輪郭図は先達である伊能忠敬や間宮林蔵たちの測量によりなされたもので、武四郎はその業績を踏まえた上での内陸調査に探検家としての栄光が刻まれる。
現在の厚岸町は真栄町と旧市街地(若竹町)が厚岸大橋で結ばれているが、旧市街地側の突き出た岬はノテトウ(岬)と呼ばれ、会所があった。この間は、渡し舟やはしけで結ばれ、1959年には厚岸丸というフェリーボートが就航した。ボクが高校1年生の頃、厚岸出身の学友の実家に仲間と一緒に泊まりがけで訪ねた。釧路から花咲線に乗って厚岸駅で降り、このフェリーに乗って対岸の友人の家を訪ねたことが昨日のことのように思い出される。(続く)

バラサン岬から厚岸湾眺望 対岸のセンポウシから会所の間は通船で行き来していた

釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。