「『松浦武四郎と行く~新・道東紀行』」カテゴリーアーカイブ

〈第八巻〉②釧路の足跡をたどって

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真は安政年間(1857年頃)蝦夷地測量に同行した絵師・目賀田守蔭が描いた釧路川河口。上写真は岩保木水門でカヌーから自転車に乗り換えるツアーの様子

▶釧路会所に着いた武四郎一行はここから海岸線沿いに根室に向かう。
ここで当時の釧路川の河口の様子と、釧路出発時の釧路から阿寒町までの間の武四郎一行のルートを確認してみたい。ボクが阿寒の仲間達と2013年から始めた阿寒クラシックトレイルは、阿寒町から阿寒湖温泉までの武四郎ルートを探訪するトレイルである。
釧路から出発しなかった理由は2つ。ボクは当時阿寒湖温泉在住で、釧路市街から阿寒町までのルートを加えると総距離が80㎞ぐらいになるので長すぎること。そしてこの間は、国道240号が武四郎ルートに最も沿っているので、歩くには今一つの雰囲気と安全上の観点から、ここをカットしたのであった。
▶あらためて幕末の釧路川河口の様子を伝える絵図を見ると、白糠から釧路に至る海岸線が砂浜であったことがわかる。クスリ会所があったとされる佐野碑園の筋向いに米町公園がある。ここは、展望から見渡す釧路の街並みに、港町・釧路の発展の歴史を垣間見ることができる昔からの観光名所である。現在、最も海岸よりの国道や橋南地区のメインルートから海側と河口側にせり出した土地は、近代以降の埋め立て地である。漁港や港湾施設が作られ、釧路川河口に拓けた港の発展を礎に街も拡大していった。

松浦武四郎の6航釧路から阿寒に向かう推定ルート図


▶武四郎は、将来の釧路の発展を「東蝦夷地第一の都会たるべし」と予見した。その根拠は豊かな資源であり、川(交通路)であり、扇の要に位置する港であった。その精神は今も釧路市中小企業基本条例の前文に引き継がれている。
▶米町公園に「釧路港修築之碑」が立っている。1909年(明治42)に帝国議会で釧路港の修築予算が成立したのを記念し、滋賀県(彦根藩)からの移住者達が開港論者であった藩主・井伊直弼を讃え建立した。当初は春採湖を琵琶湖になぞらえ、その湖岸に建てられたが後に米町公園に移築された。
この予算成立にあたって釧路港発展の可能性を新聞記者として発信したのが石川木である。木は明治41年に来釧。旧釧路新聞社の記者として76日間釧路滞在。その足跡は旧釧路新聞社を復元した港文館で辿ることができる。

啄木資料がある幣舞橋のほとりの港文館。啄木が記者として活躍した釧路新聞社社屋を復元。右手に啄木像(本郷新作)

▶釧路川の東側、太平洋に突き出た岬がシリエト(現・知人町)である。この岬の内湾の入り江が釧路港の発祥である。その後、20世紀初頭から海岸線沿いに西側に向かって港が造成され、釧路港は現在、新釧路川を挟んで東港区と西港区に区分されている。
武四郎が来釧した安政年間は井伊直弼による「安政の大獄」で尊王攘夷の志士たちに弾圧の嵐が吹き荒れた。武四郎の知友である頼三樹三郎はじめ、吉田松陰らが獄死や重罪の憂き目にあった。この井伊直弼を水戸藩の若き志士たちが桜田門で撃ったのは安政7年(1860)。それから半世紀、釧路の彦根藩の末裔たちは修築碑を建て、木は新聞記者として健筆を振るい、歌人として街を詠う。その歌碑と修築碑が並んで港を見下ろす米町公園に建立されている。
蝦夷地探訪に心身を投じていた武四郎は幸いにも安政の大獄を免れた。運命は予測不能。武四郎、米町公園で何を思う。

釧路市内を見下ろす米町公園に建立された啄木歌碑(左)と釧路港修築碑(右)

▶戦後、高度経済成長期は1954年から1973年の19年間とされている。ボクはジャストに出生し、少年時代を過ごし、釧路市役所に奉職した。青年都市釧路の発展と共に歩んだ年月であった。この間、釧路港は「東洋一の漁港」と謳われた副港魚揚場が整備され、水揚げ連続日本一を記録した。1970年代からは西港整備がはじまり、道東の拠点国際貿易港として発展する。
▶ボクは松浦武四郎の来釧に命名由来をもつ松浦町で育った。
昭和7年の町名改正で釧路駅の裏手はほとんど松浦町になった。その後、町域も分けられ、母校である共栄小学校には鉄北地区といわれる松浦町、新富町、川北町、堀川町などから学童が通学していた。昭和40年(1965)、6年生は8クラスで357名いた。1クラス約45名ではあったが特にマンモス校というわけではなかった。ガキが街にあふれていた。

釧路港全景。手前が東側、奥が西側。東の釧路川河口から西に向かって釧路港は発展した。

▶この年の秋、炊事遠足に出かけた新富士海岸で悲劇は起きた。海岸で拾った旧陸軍の爆雷部品をそうとは知らず、炊事道具に使って爆発事故が起き、4名の学友が死んだ。現場の海岸線は今、西港区の臨海公園と埠頭地区を隔てる幹線道路となっている。ボクのクラスは、当初の予定では爆発事故が起きた現場で炊事をする予定であったが、荷物を運んでくれたクラスメイトの建設会社のお父さんが間違えて、ずっと先に運んでしまったので、ボクたちはそこまで移動し、炊事をすることに変更した。
海際に煙が立ち上がり、その煙を背景にI君が走ってこちらに向かってきた。彼は学年でもとびきりのスポーツマンで、走るのが苦手だったボクはいつも羨望の目で彼を見ていた。彼は事の重大さを知らせる伝令だった。ボクたちは何が起きたのか事の全貌を知る由もなく、担任の先生と一緒にひたすら歩いて、時に小走りで、悲壮感も漂うことなく、ただ炊事遠足が中止になったことが解せないおもいを抱えて学校に戻った。
▶その後に起きたことはあまり思い出せない。しかし、若者になって学生運動に身を投じた友人はこの事故がきっかけだったと話してくれた。戦後のなおざりにした戦争処理のつけが何時、何処で目前に立ち現れるのか、誰にもわからない。運命は予測不能。しかし、この事故を自分の課題として人生を歩む契機にした人達がいた。
武四郎一行が歩き、ボクたちの戦争があった海岸線は、今はアスファルトの下となり、爆発事故の記憶は臨海公園に建立された「共栄小学校炊事遠足事故慰霊碑」で偲ぶだけだ。小学校のアルバムのクラス写真を眺めながらふと思う。ボクは死者とともに大人になってきたのだろうかと。(続く)

〈第八巻〉①釧路川をアドベンチャーツアーでガイド

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真はツアーの釧路川カヌーイングで岩保木水門に向かう。上写真は明治44年当時の岩保木での木材流送作業風景。(『くしろ写真帳』北海道新聞社刊より)

▶1858年(安政5)5月28日、塘路湖の湖畔を出発した武四郎一行は釧路川をアイヌの丸木舟で釧路会所まで下る。5月7日釧路を出発し、阿寒、網走を経て斜里から屈斜路、摩周と道東を半周した最終日。これで自身最後の蝦夷地探訪の前半を終了するという感じになる。


▶2021年秋。釧路観光コンベンション協会が企画して釧路湿原アドベンチャーモニターツアーが行われた。ボクはこの企画に参画し、当日は添乗ガイドをした。
モニターツアーの概要は、釧路湿原で楽しめるアクティビティ(湿原ノロッコ号、トレッキング、カヌー、サイクリング)などを盛り込んだアウトドア志向のツアーで、愛好者やインバウンド向けのアドベンチャーツアーを想定したものだった。
▶ガイドの立場でこのツアーを組み立てるにあたり、テーマを考えた。松浦武四郎の道東紀行をモチーフにこんなアプローチをしようと思った。
〝幕末のアドベンチャー松浦武四郎の釧路川探訪の足跡をたどり、釧路川再発見を旅する。先住民アイヌと折り合いをつける異文化融合の姿を地名に探しながら、様々なアクティビティを駆使し、釧路川・新釧路川・旧阿寒川沿いに近世・近代・現代につながる自然と開発のあり方を見つめる〟
ツアーは釧路駅から湿原ノロッコ号に乗って釧路湿原駅まで行き、細岡展望台から釧路湿原を眺望し、細岡カヌーステーションまで約3キロを歩く。その後、カヌーステーションから釧路川を下り、岩保木山水門までのカヌーイング。そこからはクロスバイクやマウンテンバイクに乗ってサイクリングで新釧路川沿いに南下し、新釧路川から、柳町公園沿いに釧路川に向い、釧路川からその河畔を出発地の釧路フィッシャーマンズワーフまで戻るというもの。
徒歩、カヌー、サイクリング+観光列車を利用した盛りだくさんなアクティビティプランだ。ボクは武四郎の足跡をたどる背景に、地域の〈アイヌ地名〉や〈川の歴史〉を加味して、地域の再発見ツアー(マイクロツーリズム)にしてみたいと思った。
体験プログラムを縦軸に、川の開発、地名変遷の歴史を横軸に捉えて見ると色々と地域の歴史や出来事が連なってくる。参加者にも風景の背後にある地域の歴史を少しでも感じとってもらえればと思った。

釧路観光コンベンション協会主催の「釧路湿原アドベンチャーモニターツアー」の行程

▶歴史を遡りながら川を下る
1920年(大正9)8月、未曾有の大洪水により釧路の市街地はほぼ冠水する状態に陥る。この洪水被害を受け、翌年から下流部を直線化する大規模な河川改修工事がはじまる。その起点は現在の岩保木水門で、この水門からの新規直線ルートと、従来の釧路川の2つのルートが出来、有事の場合は水門を開いて、河川の負担を分散する防災措置が施された。
しかし、工事が完成した昭和6年以降、岩保木水門は一度も開いたことがない〈開かずの水門〉といわれている。
現在、釧路川は川の機能としては直線化された新釧路川が担っており、鮭もシシャモもこの川を遡上する。従来の釧路川は岩保木水門から下流は流れのない川となっている。


▶大洪水以前、釧路川は西側から湿原を下って合流する雪裡川、久著呂川などとともに、阿寒湖を水源とする阿寒川も支流としていた。しかし、阿寒川は暴れ川だったので大正7年から現在の新釧路川のルート上(仁々志別川河口)に通水し、海に流す直線ルートが作られたが、この大正9年の大洪水では、阿寒川はさらに上流で分離し、もっと西側の現在のルート(大楽毛海岸口)に変わってしまう。
▶大洪水の翌年から始まった釧路川の直線化掘削工事と合わせて、新釧路川と釧路川の間の旧阿寒川のルート沿いに運河の掘削も進められる。しかし、鉄道網の整備により運河の機能は不要となり、工事はとん挫。その後、運河(旧阿寒川)は埋立により、昭和57年に柳町公園となって〈緑の川〉に生まれ変わる。

雪裡川での大正2年の木材流送作業(『くしろ写真帳』北海道新聞社刊より)

▶今回のモニターツアーのルートは、時代軸で整理すると、武四郎一行が下った〈近世の釧路川〉から〈近代の直線化された新釧路川〉を経て、〈柳町公園に姿を変えた旧阿寒川〉を通り、〈景観整備により再生された釧路川〉を現代に戻ってくるツアーの流れだ。
近代以降の釧路の開発は、湿原を取り囲む後背地に広がる森林帯の木材資源をもとに〈世界の原木供給基地〉として進展する。木材搬送する河川の舟運は、その後、鉄路に代わるが、木材資源は枯渇しはじめ、産業は衰退。運河の埋立を進めていた旧阿寒川は公園整備に計画変更。その様は、開発の時代の変遷を見るようだ。
その後、釧路川に河口型観光開発として観光新時代を期待された釧路フィッシャーマンズワーフの誕生(1989年開業)につながる。
▶これらの河川開発の歴史と共に、アイヌ文化目線で地域の地名やモシリアチャシなどの遺跡群を見て、アイヌにとっての河川の役割、動植物の活用等の視点を解説に盛り込むと、さらに魅力的な地域再発見ツアーができるのではないかとおもう。
しかし、引き出しは沢山出来たけれど、アクティビティのスピードとガイドの解説がうまく折り合うかは、まだまだ検討の余地あり。


▶近代以降の自然資源の開発は、単純化していえばスピードとそれを実現するために直線的。自然は時代適応せざるを得なかった。その後の開発思想の変化は、自然保護や環境との調和をめざし、まちづくりにもそのコンセプトが反映している。ポストモダンを象徴する釧路の毛綱建築物や蛇行河川の面影を遺す釧路川のリバーサイド河畔開発は曲線的。
▶直線から曲線へ、そして釧路の未来はどんな線形を描くのか? 観光が地域経済の発展や雇用の拡大に寄与する方向性は共有されているのだろうが、そこに新たな観光文化は一石を投じることが可能なのか。
温故知新。
大胆に時代を見つめ、時に失敗をしながらも地域の未来を拓いてきた先人達の歴史をたどりながら、今のボク達に欠けているものは何なのか。
ツアーの魅力とその実現策を検証しながら、そのことをあたらめて考えさせられた。(続く)

夕焼けの幣舞橋フィッシャーマンズワーフでツアー終了

〈第七巻〉④「くすり乃たけごんげん」は何処

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は摩周湖第三展望台から望む硫黄山と奥に藻琴山。上の絵図は蝦夷図全図(『三国通覧図説』所収図 林子平著1785年)北海道大学北方資料データベース 

▶釧路の厳島神社は安芸の宮島で有名な厳島神社の御分霊で「市杵島姫命」が主祭神。この他、複数祀られている神様の内、「阿寒大神」は雄阿寒岳、雌阿寒岳を霊峰とする山神様で、アイヌの神ともされている。(「厳島神社」ホームページより)
果たして円空が民の平安を願って遥拝した「くすり乃たけごんげん」とは何処の山だったのか。

絵図拡大。右上に「クスリ嶽」、左に「アカヌノ嶽」が表記。阿寒岳とクスリ嶽は違う山の可能性を示す。

▶江戸時代にクスリ場所を海からアプローチする時、シンボリックに見える山といえば、まず候補は、雌阿寒岳(1499m)または雄阿寒岳(1370m)。ちょっと奥には斜里岳(1547m)が見える。霊山としてはカムイヌプリ(神の山)と呼ばれ、崇められる摩周岳(857m)。アトサヌプリ(硫黄山)も伝説に彩られた山である。藻琴山(999・9m)は屈斜路カルデラの外輪山で平坦な山容で目立たないが、霊山という側面でみると決して侮れない。

▶藻琴山には2つのアイヌ名が付けられている。松浦図には「トウエトクシヘ又ウラエウシノホリ云」と記されている。釧路アイヌはトエトクシペto-etok-ush-pe〈湖の・奥に・いる・者(山、神様)〉と云った。逆方向の網走側の浦士別にもかつてコタンがあり、「浦士別川の水源にもあたるので網走側の呼び名がウライウシヌプリurai-ush(-pet)-nupuri〈浦士別川の・山〉と呼ばれていたのであろう」(山田)とのこと。
「山名はその下を流れる川の名前をとって呼ばれる場合が多い」(山田)との例によれば、オホーツク海に流れ出る藻琴川の水源もこの山なので、アイヌ地名ルールにならって現在の和名も藻琴山になったのだろうか。

松浦武四郎著「久摺日誌」に掲載された地図には「クスリ岳」の表記が藻琴山か、硫黄山のあたりに描かれている。

▶屈斜路湖の河口部東側にオプタテシケヌプリ(504m)という山がある。山田氏は著書『北海道の地名』で次のようにアイヌの古老八重九郎翁の話を紹介している。
「オプ・タ・テシケ・ヌプリ(op-ta-teshke-nupuri槍が・そこで・はねかえった・山)の意だろうか。オプタテシケは女山で、トイトクシペ(藻琴山)は男山だ。女は位があるので、ために槍を投げたら槍がテシケ(それる)して眠っている摩周湖ヌプリに刺さってその跡が赤い血の沼になった云々」
この伝説は有名なようで、知里真志保著『アイヌ語入門』でも「山争いの伝説」として紹介されている。同じ話なのだが、八重九郎翁はオプタテシケは女山で、知里真志保氏は男山としているところが可笑しい。知里版には後日談が書かれていて、「マシュウ岳(カムイヌプリ)は腹を立てて、千島のクナシリ島へ飛んで行き、チャチャヌプリのそばへ身を寄せたが、晴天の日にはトゥエトコウシペ(藻琴山)のもがき苦しむ醜い姿が見えるので、さらに飛んでエトロフ島に行った。釧路や阿寒のアイヌが千島に行くと、晴天でも雨が降るというが、それはカムイヌプリが故郷を思い出して流す涙だという…」
八重九郎翁曰く、「カムイノミ(神拝)する時には、山々の名を称えて献酒するのであるが、いかなる場合でもトエトクシペが第一に称えられる最高の神山」(『北海道の地名』山田秀三著)とのこと。

屈斜路湖から流れ出る釧路川河口左岸にあるオプタテシケ。伝説に彩られた山だ。

▶釧路の郷土史家・故佐藤直太郎の研究論文によれば〈「薬ケ嶽」の初見は『和漢三才図絵』(1713)であり、その後『蝦夷全図』(林子平著1785)には、「クスリ」の傍に「クスリ嶽」が描かれ、それより北東方向に「アカヌノ嶽」(阿寒嶽)も描かれている。伊能忠敬の実測では阿寒嶽のみが描かれ、航海者の目標にもなった。『北海道志』(開拓史編1884)の地図には釧路嶽、雌阿寒嶽、雄阿寒嶽がのっていて、クスリ嶽は薬ケ嶽なので阿寒嶽は別の山。釧路嶽=クスリ嶽=薬ケ嶽は釧路地方の代表的名山であった証拠。〉とされている。
多様な由来や霊山としてのエピソードも加味され、〈藻琴山こそがクスリの地のシンボルマウンテン・くすり乃たけごんげん〉とのおもいを強くしたのだが…。後年、武四郎の探訪記録にはウラエウシヌプリ=藻琴山とは別にクスリ岳と表記された絵図(野帳)もあり、佐藤氏はアトサヌプリ(硫黄山)がこれにあたるのではとの推察もされている。

屈斜路湖の東岸に並ぶ3つの山。左端がアトサヌプリ(裸の山。現・硫黄山)

▶ボクの両親の故郷は斜里である。父は斜里岳の麓・川上羅萠で、母は以久科という海岸線の集落で育った。父方の実家の裏には小さな祠があり、祖母が山に向かい手を合わせていた姿を覚えている。以久科はボクの見立てではもっとも斜里岳が美しく見える処である。すそ野まで左右対称にのびた山容は全身斜里岳である。さらに山頂からは実家も含めオホーツク海に抱かれた原野が見渡せる。双方向視界全開のシンボルマウンテンである。
我が家の祖先のみならず、オホーツク人はもとより、古の先人達は、此の山に何を祈り、何を感謝して日々生き抜いて来たのだろう。
「ふるさとの山に向かいて言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな」(啄木)

斜里町以久科から見た斜里岳は最も均整のとれた山容。我が先祖の入植の地でシンボルマウンテンだった。

▶釧路で育ったボクは製紙工場の紅白の煙突にたなびく白煙を背景に遠望する雄阿寒岳、雌阿寒岳を見ながら少年・青年期を過ごし、そして老年期を迎えた。2022年春、その白煙は工場の閉鎖で途絶えたが雄岳、雌岳は変わらぬ山容を今に留める。
伊能忠敬は此の山を測量の標とし、松田伝十郎は海霧のなかに頂きを探したに違いない。アイヌたちは阿寒川沿いにこの山を頼りに湖畔を目指した。その阿寒の山が「くすり乃たけごんげん」か、否かは研究者に任せるにしても、ある刻から阿寒大神の山神になったことは納得できる。歴史の謎解きに身を委ねれば藻琴山か、硫黄山のいずれかが「くすり乃たけごんげん」なのかも知れない。しかし、時代の変遷にそってシンボルマウンテンは替わり、今日、道東に暮らす多くの北海道人が、それぞれのおもいをよせるシンボル・マウンテンが複数存在することも確かである。
単身赴任で5年間、阿寒湖温泉に暮らしたボクにとっても第二の故郷の山は雄阿寒岳、雌阿寒岳である。「くすり乃たけ」がシンボル・マウンテンズになるのも時の流れ。(終り)

武四郎が描いた釧路会所の図(『東蝦夷日誌』)背後に道東のシンボルマウンテンズが連なる

〈第七巻〉③母なる川と「くすり乃たけごんげん」

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は屈斜路湖釧路川河口。上の写真は円空作薬師像(厳島神社蔵)

▶母なる川と「くすり乃たけごんげん」
釧路に住むボクたちにとって、釧路川は屈斜路湖に源を発し、154㎞に及ぶ流れの道中で釧路湿原の中を蛇行しながら、多くの支流を集め、太平洋に注ぐ母なる川である。
水源の湖である屈斜路湖は、松浦図には「クスリ湖」と表記されている。クスリ・トゥ(薬・温泉の湖)は釧路の地名由来の一つである。
アイヌの人たちは自分たちの生活圏の中で、誰もがわかる大きな湖や河川については、特段名前をつけるわけではなく、ただ単にトウ(湖)やペッ(川)と呼んだそうだ。だから松浦図の記載どおり、アイヌの人たちが昔からこの湖をクスリ湖と呼んでいたという確証はない。アイヌ文化の伝承者・山本多助エカシは、クシリ・オンネ・トー(薬温泉の・大きな・湖)と伝えているし、そもそも〈アイヌは、クスリではなく、クシリという〉とのことで、釧路川も「クシリ・シ・ペツと云った」とのこと。(『森と大地の言い伝え』チカップ美恵子編著 北海道新聞社刊より)

松浦図拡大。屈斜路湖に「クスリ湖」の表示。その北側に「トウエトクシヘ又ウラエウシノホリ云」(藻琴山)の表記が見える

▶現在の河口には眺湖橋がかかり、源流部カヌーの起点となっている。
松浦図にはクッチャロという地名が見れる。アイヌにとって川は〈海から発し、山に向かって上るもの〉とのことで、自然の地理地形の多くは人体になぞらえて名前が付けられている。湖から見ると水源地の川口部は人間の喉元を表すクッチャロという言葉が標準化されている。阿寒湖でも阿寒川の川口にある滝の名前はソーパロ(滝の口)で、そこから先の細い入江の箇所にもクチャロの名前が見える。
カルデラ湖である屈斜路湖や阿寒湖の湖岸や湖底からは温泉が湧き出しており、クスリは温泉と薬効で結ばれる。
江戸時代の文献では一貫してクスリという表記になっている。その点から、クスリというアイヌ語は和語からの借用語ではないか、との説もある。

釧路川下りの基点。屈斜路湖河口に架かる「湖眺橋(こちょうばし)」


▶クスリの初見は寛永20年(1643)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号の航海記録に残っていたものが最初とある。外国人によって最初に記され、和語とアイヌ語の共用語として今日の地名に引き継がれているクスリではある。
釧路川が母なる川とすれば、母又は父なる山として、ここで取り上げてみたいのは藻琴山である。
▶釧路の厳島神社に江戸時代の仏師・円空の彫った薬師仏がある。円空が寛政6年(1666)に来道した折りに彫った計約40体の道内各地に残されている仏像の一つである。この座像の背面に「くすり乃たけごんげん」の銘がある。この像は内浦湾に面した礼文華峠にあるケボロヰとよばれる洞窟にあった5体のうちの1体で、5体は蝦夷地を代表する山岳にあて、はるばる霊山を訪ね難いのでこの洞窟に背銘像をそろえて遥拝したと云われている。(続く)

摩周第三展望台から屈斜路カルデラを望む。左手の白い山がアトサヌプリ(裸の山。硫黄山)。奥に見えるのが藻琴山。いずれも「くすり乃たけごんげん」の候補。

〈第七巻〉②ちょっとレアなカルデラ探訪

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は藻琴山頂上から屈斜路湖と外輪山を望む。上の写真は登山道入り口です。初心者でも楽しめる低山です。

▶ちょっとレアなお勧めのカルデラ探訪コース
摩周湖から下ってアトサヌプリ(硫黄山)の山麓を周り、屈斜路湖岸に出る林道がある。この「池の湯林道」では、道路際にハイマツやエゾイソツツジ、ガンコウランなどの高山植物群を見ることができる。ボクは以前、北アルプス立山縦走の折り、ウラジロタデという高山植物を室堂から剣岳に向かう途中の高山帯で見たが、どういうわけかこの植物が弟子屈川湯の道路沿いに結構あるのだ。硫黄山山麓のエゾイソツツジの大群落は有名だが、平地でも高山植物を見ることができる北海道でも特異で貴重な自然環境である。

池の湯林道には高山植物が道路際にあります


▶池の湯林道の中間地点あたりにはキムントーという小さな沼がある。キムはアイヌ語で山という意味で、〈山の中の沼〉とでもいう意味になろうか。駐車して2百メートルほど歩くと静かなそしてちょっと不気味な沼に出る。幽玄で少しモノクロームな印象のある秘境である。北海道どこでもヒグマに会う可能性は無きにしもあらずだが、地元民によれば、ここはちょっと確率が高いそうだ。昨今、秘境の価値低下が著しいが手軽に行ける貴重な秘境だ。

キムントーのちょっと寂しい幽玄な風景


▶屈斜路湖周辺の国道や道道は舗装道路で快適なドライブができるが、林道はほとんどがオフロードである。車にもそれなりの心構えが必要である。屈斜路湖は周囲57㎞の湖であるが、北側のおおよそ半分は一般的にはあまり通る事のない、地元民のそれもアウトドア志向の方が訪れる林道である。湖岸沿いにほぼ半周、片側に湖を眺めながらオフロードドライブを満喫できる。クロスバイクやマウンテンバイクなどのサイクリングコースとしても面白いと思う。
トレッキングを楽しむならやはり藻琴山登山がお勧めではあるが、静かな湖岸を散策するのも魅力的である。特に和琴半島を周るトレッキングコースは平坦で原生の森や露天風呂などがあり魅力的なコースだ。

池の湯の露天風呂。ちょっと温めだけど温泉を楽しめます。


▶露天風呂は和琴半島のほか、砂湯、池の湯、屈斜路アイヌコタンにあり、今も愛好家や観光客が楽しんでいる。池の湯と屈斜路コタンには武四郎の歌碑が有志により建立されている。池の湯の歌碑は露天風呂から湖岸沿いに右手約50mほどのところにあるがわかりづらい。
歌碑には―
「久寿乃湖 岸のいで湯や あつからん 
 水乞鳥の 水こふてなく」
―とあるが、これも読みづらい。いやほとんど読めない。水乞鳥はアカショウビンではないかと言われているが、カワセミの仲間のアカショウビンはその名のとおり全身ほぼ朱色の野鳥ファンにとっては憧れの鳥ではあるが、今日、道東では見ることはない。道央では観察例があるし、ボクも白老のポロト湖畔で観察できた。昔は道東でもいたのかもしれないが…。
しかしこの歌は、露天風呂の情景を醸し出し、趣のある歌ではある。ちなみにボクの解釈では、水乞鳥というのはハクチョウが相応しいのではないかと思っている。

池の湯の武四郎歌碑。探すのが少し大変です


▶屈斜路湖は冬、凍結し、雄大な御神渡りができる。1月中旬から2月上旬が狙い目。
湖岸の温泉が湧き出ている露天風呂の周辺は、凍結しないのでハクチョウの群れが冬を越す。以前、香港の旅行雑誌関係者を案内して、真冬にここで女性記者がサッと服を脱ぎ、露天風呂に入り、ハクチョウと一緒のところを撮影した。その記者根性に圧倒された。ハクチョウと混浴できる稀な露天風呂だ。冬のバードウォッチングツアーでは屈斜路湖は外せないスポットである。

摩周岳から3つのカルデラを展望する

▶5月26日、弟子屈を後にして武四郎一行は陸路で標茶に向かった。そこには弟子屈に運ばれているはずだった食糧が届いていた。
ここから釧路川を丸木舟と陸路の二手に分かれて一行は釧路を目指すのだった。(続く)