「『クスリ凸凹旅日誌~24の旅のカタチ』」カテゴリーアーカイブ

『クスリ凸凹旅日誌』●随想⑤統合と分断

パリからベルギー方面への鉄路の玄関はパリ北駅、この雰囲気が旅情をそそる

 パリからベルギー、オランダを経由してアムステルダムまでの移動は電車であった。
 この間、ブリュッセル、ブリュージュ、ゲント、アントワープ、デン・ハーグで途中下車や宿泊をして街歩きや美術館で名画を堪能した。
 この一帯は古くはネーデルランドといって 14世紀頃には西ヨーロッパ、つまりは世界の先進地域であった。欧州の歴史にいつでも登場するハプスブルク家が継承。この後、紛争戦争を繰り返しながらスペイン、ベルギー、オランダに分割されることになる。弊社の社名は釧路の旧名「クスリ」に由来する。オランダから見れば極東の端ではあるが、釧路の江戸時代の呼称であったクスリについて記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではない。寛永20年(1643年)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号の航海記録に残っていたものが最初の記述である。
 出島はもとより、こんな身近な出来事にも当時のオランダがどれほど世界の中で影響力を持っていたかを偲ぶことができる。


 一方、第二次世界大戦下におけるオランダと日本の戦い、特にオランダ人捕虜をめぐる様々な事件は両国関係に大きな影を今も落としている。旅行出発前にBS の世界のドキュメンタリーでアジア系の女性が自分の出自を調べて日蘭の戦争史を調べる番組を見た。彼女の父親はオランダ人でメイドとして働いていた母親が家主であったこの父親に強姦されて生まれたのが彼女であった。自分の父親がどんな人間であったのかを調べる中で、戦争中捕虜として日本軍に捕まり様々な辛酸を舐め帰国後、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)を患った父親の歴史にたどりつく。それは日本軍に対する復讐の代償としてアジア系のメイドを甚振ったという複雑な事情が背景にある悲劇であった。
 昭和天皇や上皇陛下がオランダ訪問時に猛烈な反対に遭遇した様子も番組では紹介されていた。ボクの知る限り日本でも報道されたが、その番組ではオランダ側が取材した、さらに過激な実態を映し出していた。

 
 アントワープからデン・ハーグへ向かう車中は自由席で混んでいたので通路を挟みボクと連れは別々のボックスに坐ろうとした。ボクの隣には30代らしい日本人女性がいた。
 どう見ても旅行者ではない。こういう時は冷静に振る舞わなければいけない。「この席は空いていますか、座ってよろしいですか」「どうぞ」とやりとりした後は相手から話しかけられるまでじっと我慢するのが紳士の振る舞いというもの。バタバタ焦って自分のことばかり喋り続けるのは最悪。と、心で確認するのもまもなく、相手から「ご旅行ですか?」「ハァ~、ハイ!」以下会話はとてもリズミカルに…。
 彼女は我々に関心を持ってくれたようで次から次と会話が弾む。こちらから聞いたわけではなく、自己紹介もしてくれた。
 彼女は日本を離れ20数年、現在はKLMのキャビンアテンダントとして働き、夫と子どもとアントワープに暮らしている。今日はフライト乗務でアムステルダムの空港まで移動中とのこと。納得した。コミュニケーションサービスのプロであった。
 彼女の話は、例えばベルギーとオランダの違いを国の歴史、人の気質、生活環境なども含めて素人旅行者の我々に伝わるように話してくれた。
「ベルギー人はちょっと気取ったところがある東京人のようだけど、オランダ人は関西風できっとアムステルダムではオランダ人の親切心に触れることができると思う」。こんな感じである。
 ボクがエールフランスで来て、帰りはKLMを使う、と話すと現在2社は持株会社でヨーロッパ最大の航空グループとなっているとのこと。統合にあたってそれぞれの会社の社風や文化背景も違い苦労した話も面白かった。確かに旅の予習ではベルギーはカトリック、オランダはプロテスタント。食事のうまいベルギー、乳製品以外これといった名物料理もないオランダ。まぁこんな程度の予備知識だもんね。
 現地でこんな人に偶然出会い、様々な話を聞ける機会はそうあるわけでもない。日本語を喋る現地ガイドというのも存在する。ボクは外国人もガイドするので逆パターンで考えるとボクがその立場である。しかし彼女は美人で聡明でしかも無料。この偶然は神様が与えてくれた〈旅の贈り物〉なのだ。
 旅先の外国で政治の話をするのは御法度ということにはなっているが、その場の雰囲気や相手次第でボクは結構シビアな話もする。
 彼女にとっておきの質問をした。「オランダ人は日本人に対して第二次世界大戦中の虐待行為に対する恨みが今も根強くあると聞いたことがあるが、あなたはそういうことを体験したことがありますか?」 彼女は自分の体験としてキャビンアテンダントの友人からホームパーティーの招待を受け、参加したところ、友人から「自分の祖父は日本人には会わない」と言われたことがあることを話してくれた。同世代の日常的な仕事の付き合いや友人関係ではそんな確執は一切感じたことがないが、戦争体験世代の中には、そういう体験に今も苦しめられている人がいることを実感したとのことであった。


 上海便のフライトに乗務する彼女とデン・ハーグで別れた。
 最終訪問地のアムステルダムの宿の近くにユダヤのシナゴーグと歴史資料館があった。彼女と会わなかったら行かなかったかもしれないこのユダヤの施設はヒトラードイツ占領下のユダヤ人の悲劇を今に伝えていた。休館日で見ることができなかった「アンネ・フランクの家」の見学を埋めるかのように。
 歴史資料館で写真家デヴィッド・シーモアの特別回顧展が催されていた。マグナム・フォトの代表者をつとめ、ボクにとっての写真アイドルであったロバート・キャパやユージン・スミスと同世代の写真家でいきなり写真小僧だった高校時代にタイムスリップしたような気分だった。
 ボクのサブカルチャーの引き出しは骨董屋で仕入れた我が家の種苗農家の種入箪笥のようだ。引き出しは沢山あるのだが、歳をとると、どこに何を入れたのかわからなくなる。
 でも旅に出て人と出会ったり、街歩きでふと見る情景に記憶の引き出しは不意に開かれ、ボクに忘れかけていた過去を呼び覚まさせ、新たな物語を語り始めてくれる。
 それはボクにとって旅の醍醐味といっていいものだ。旅先での出会いは一期一会かもしれないが〈記憶〉として蘇り、あわよくば再会する刻がくることを念じる。そして別れのひと言を…
 See you again someday, somewhere. 

『クスリ凸凹旅日誌』●随想④旅の付加価値

ヴィルモランの社長と旅の記念写真を

 イタリアでルネサンスの洗礼を受け北方ルネサンスやバロックそして17世紀オランダ絵画への興味が広がるなか、西洋絵画に目覚めた我々にとってこの旅は必然であった。名画を訪ねフランス、ベルギー、オランダを縦断する計画をたてた。観光と名画鑑賞が旅のメインテーマではあるが、サブカルチャー志向のボクにとってはいくつかのサブテーマも仕込んだ。
 芸術の都パリは写真小僧だった若かりし頃のボクにとってはアンリ・カルティエ・ブレッソンやウジェーヌ・アジェなどの写真家に活写された憧れの都であった。我が家にも数冊写真集があるが、そこにはいずれも19世紀から20世紀初頭にかけて写真の黎明期に撮られたパリの姿があった。


 阿寒湖温泉で仕事をしていた時に、阿寒の森を所有し長年にわたり森林保全を担ってきた前田一歩園の創設者・前田正名を知ることになる。
 明治初期、日本に近代化の息吹をもたらすため有望な薩摩藩の若者が欧米に留学した。その一員として20歳の前田正名は1869年から7年間にわたりパリ留学を果たす。
 この留学で得たフランスの農本主義を中心とした見識は、生涯にわたり〈地場産品をメインに国力を地域の力で押し上げていく農本資本主義〉ともいうべき正名の開発思想に大きな影響を与えた。
 阿寒の森を「伐る山から見る山へ」の転換を図り、現在に至る観光産業を基盤とする自然と人の共生の地域づくりの土台を作ることになる。
 出発の前、『人物叢書前田正名』(祖田修著)をパラパラとめくっていたら、正名が帰国する前にパリの世界的な種苗業者であったヴィルモランの協力を得て、多くの種苗を集め、日本に持ち帰った、と記されていた。オリーブや葡萄や有用植物の種、苗木はその後日本で甲府ワインなどの生産に繋がっていく。本には「ヴィルモランはセイヌ河畔に種苗問屋を営み現在も営業中である」とあった。
 夜明け前にカルチェラタンの宿を出て、カフェで朝食を済ませ、パリ発祥の地シテ島のノートルダム大聖堂で夜明けを迎えた。聖堂見学やサントシャベルを見た後、ルーブル美術館に向かいセーヌ川河畔を歩いていると街角の一角が種苗や造園関係の店舗でできているエリアに出くわした。その角の店の深緑のウインドウルーフにヴィルモランのスペルを見つけた。
 店舗に入ると園芸用品の専門店らしく家庭菜園レベルからプロユースの園芸用品まで品揃いが行きとどいていた。店舗の奥に会議室らしきものが見えたので覗いてみると何人かのスタッフが打ち合わせをしていた。ちょうど打ち合わせが終わったらしく出てきた人に声をかけた。当然こちらはフランス語はできず、英語でそれも片言レベル。社長に会いたいと伝えたら取り次いでくれた。ボクより若い、人の良さそうな社長がボクの拙い説明を必死になって理解しようと聞いてくれた。
「1876年当時、日本の留学生がこの店の協力を得て日本に沢山の種苗や苗木を伝えた。その人物の足跡を訪ねてパリにボクはきた」と、言ったつもりなんだがおそらく伝わったのは半分以下。でも怪しい奴ではないと思ったらしく社長は「ちょっと待ってくれ」と言って奥の事務所から一枚のペーパーを持ち出し、この店の歴史を語り出した。
 ペーパーはフランス語だったのでボクにはチンプンカンプンだったが社長はそこそこの英語で語ってくれた。一緒に写真を撮って、「またいつか訪れたい」と伝え、店を後にした。
 ルーブルの開館時間に間に合わせなければならない! メインテーマはこちらなのだ。


 翌日はオルセーやオランジュリーなどルーブルと共にパリを代表する美術館巡りがメインテーマであった。しかし、またしても夜明け前から始動した我々はカフェで朝食をとり(ホテルは朝食なしの素泊まりの安宿)通勤客とともにメトロを乗り継ぎ、モンマルトルを目指した。
 モンマルトルはルノアールやドガやゴッホなど多くの芸術家が創作活動を行った芸術の街である。近年は映画『アメリ』の舞台として脚光を浴び、パリ観光の人気スポットでもある。
 実はボクの友人の娘さんがモンマルトルでお菓子屋さんを開いたというのである。娘さんのパートナーはパリでも人気のチョコレート職人で日本のテレビ番組でも紹介された。その店にドッキリ訪問しよう、というのがもうひとつのサブテーマであった。同じ町内で生活していたので小さい頃から知っていて、一緒に山に行ったり遊んだりしていたため顔見知り。ドッキリ訪問でも「あれ、どなたでしたっけ?」と肩透かしの危険性がない。友人にも訪問のことは内緒。というのも、もしも訪問できなかったら混乱するかもしれず、〈旅先での約束事は最小限〉の我流教訓にしたがった。


 さすがインターネット時代である。スマホ片手に一発で到着。「ヤア、ヤア、どうも、どうも」「アレ、アレ、アレ~」。まぁ、そんな感じであった。こじんまりとした角地にあって明るい店内ではあるがアトリエ(工場だが、フランスではこういう)も併設。お菓子が中心だがパンも焼いていて、午前中ではあるが程よい感じで常連客風の老若男女が来店していた。
「事前に知らせてくれたら一緒にランチでも食べたのに」。でも彼女は出産したばかりで、今は店のマネージメントをしながら主婦業をしているそうだ。無用な負担は禁物。
 彼女は高卒後、東京の料理学校でパティシエを目指し修行をした後、再度勉強のために単身パリに渡り、働く中で彼と知り合い現在に至る。
 フランス語は男性名詞と女性名詞が分かれる。パティシエは菓子職人だが男性名詞。女性名詞ではパティシエールという。つまり彼女はパティシエールを目指し、パリで修行し、パティシエの彼とめぐり逢い、パティスリーを開いたということになる。
 パ行4段活用である。
 さっと訪問し、さっと去る。中高年の旅の美学。どことなく『深夜特急便』を思い出しながらモンマルトルを後にした。
 それにしても「GILLES MARCHAL」(店名です)のエクレアの美味しかったこと。記憶に残る美味とはまさにあのこと。

『クスリ凸凹旅日誌』▶21話:あこがれの巴里から 列車に乗って

2018年11月12日~24日
パリ、ベルギー、オランダ
塩 幸子

パリ初日の早朝最初に行ったノートルダム大聖堂は朝日に映えて美しい姿を見せていたけれど、この半年後、まさか猛火に包まれる姿を見るとは…

「絵」を見て歩く旅なのだ
 喉が痛い。60代半ばに入ってこの頻度はました。風邪引いたのかなぁ? のサインはまず喉からだ。これを侮ってはいけない。しっかりキャッチして対応しなければ病院行きは免れない。
 秋の終わりにフランスベルギーオランダの旅をした。日本を出る前から喉に違和感を感じていた。とりあえず風邪薬を持参して自宅を出た。このちょっとの風邪気味は帰国するまで続いた。万全の状態での旅はそうそうない。
 釧路を出てその日のうちに成田まで行って一泊するか、都内に一泊して午前中に成田に行くか。どちらにしても釧路から成田経由なら国内一泊は必要だ。ヨーロッパへ発つ便は、ほとんど午後一だから一泊しなければ余裕がない。
 この時は午前中の羽田行きに乗り、汐留でジョルジュ・ルオー展を見て、夕方成田に着いた。空港で韓国に一人旅をしていた娘と待ち合わせをした。もう大人なのだから細かく色々とは言えないが、一人旅はやはり心配だ。無事帰国した娘の顔を見て、安心して旅に出られる。夕食を共にして別れた。
 翌日パリ行きの機内で、ここまでこれたとほっと一息だった。この旅行は完全に「絵」を見て歩く旅なのだ。最近はとにかく絵を求めて歩く。これに徹している。思いっきり会いたかった絵。超有名な特別な絵は判別がつく。でも、もうどこで目にしたかはどうも分からなくなってきている絵がたくさんある。テレビで? 雑誌で? 美術館で? このわからないのは何とも言えないやりきれなさだ。
 2泊するパリに着いた。ドゴール空港からパリ市内へのバスチケット購入に手間取っていたら30分毎のバスが行ってしまった。私はこういう時、しっかりショックを受ける。30分はけっこうな時間だ。次のバスでいいじゃないか。のんびり行こう、なんてならない。のっけから「順調」を壊されたかのようだ。しかし、あれだけのたくさんの人たちはどこに散らばったのか。バス停には数名しかいない。先に行ってしまったバスもスカスカだった。個人旅行の心細さ。団体旅行にない心配がうず巻く。
 高速道路を突き抜け走ったバスは人々がざわめく市内に入っていた。初めてだけど、「あぁ、来たな」と思った。うっすらと曇ったような、薄いベールが街全体をふわぁっと覆った雰囲気だった。古くて黒ずんだ壁の建物が人々の行き交う風景を穏やかに見せている。カルチェラタン。ここで宿を見つけるのに結構な時間を費やした。あたりはもう夕暮れだった。夕食は奮発して近くに日本人がオーナーだというレストランに予約をした。今一つの味であった。
 パリの朝はいつまでも陽が出ない。宿向かいのパン屋でコーヒーとパンの軽い朝食をとる。8時を回ってもまだほのかに暗い。意気込んで朝早くから動き出していた。今日はルーブルなのだ。宿から歩いてほどなくノートルダム大聖堂が見えてきた。セーヌ川を挟んで朝日を浴びている。なんて美しいんだろう。


 「2時間で上手く回れるルーブル」を何度もテレビで見ていた。しかし上手く回れるはずの順路はまるっきりダメだった。見どころは少し役立った。この巨大な美術館で夕方まで歩き回っていた。くたくたになった。宿から歩きっぱなしなのだから。
 次の日、知人の娘さん夫婦が営んでいるお菓子屋をモンマルトルに訪ねた。地下鉄を乗り換えて向かう。最初の地下鉄の駅構内で地図を見ながら確認していたら、若い男性が笑いながら声をかけてきた。〈スリ〉のあれこれの手口がいきなり頭をよぎった。私の驚きと緊張した顔を見て、彼はどう思っただろう。今でも気にしている。親切心だとすぐわかった。ちょっと目を上げると幼い姉妹がこちらを見ている。朝の通勤時、子供を送り、これから仕事へ向かうんだと見て取れた。連れが用意していた折り鶴をプレゼントして別れた。乗り換えの時も間違えないか見守ってくれていた目と合った。
 芸術家たちが昔、暮らしていたモンマルトルで店を探して歩いた。昨日の快晴は続かず、雲が空を覆っていた。サクレ・クール寺院は雲の中だった。ルノアールの「ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会」の場所は思いのほか、こじんまりとしている。早朝、初冬のこの季節では観光客はまるでいない。やはり人がいて雰囲気が出るのだろうとつくづく思う。店を探し当て、チョコレート、オレンジピールのお土産を買い、お菓子を食べて、お持たせをいただく。「スリに気をつけてね」と声をかけられた。あらめてスリが多いんだと思いおこす。フランス語を客人とスラスラ交わす彼女を見ていた。よく覚えたね。
 凱旋門、オランジュリー美術館、ルーブル、オルセー美術館と次々とこなし帰路は歩いて宿へ。オランジュリーでは一部特別展があり、ポーラ・レゴの作品に惹かれた。帰国して調べたら80代の女性だった。現代感を含んだアートに力強さを感じた。ルーブルでは2日間券だったので、この日も足を運んだ。残念だったのはドラクロワの「自由の女神」、ダヴィンチの「岩窟の聖母」が外出中だったこと。そして「モナリザ」の微笑は、やはり一番。生を見たんだ! 違いを痛感。オルセーでピカソに見入り、特別ピカソ展は長蛇の列。常設だけで我慢だった。くたくたの早足回りのパリを終えた。明日からベルギーだ。

ベルギー・オランダ街歩き
 パリ北駅からベルギー行きの列車に乗る。下調べでは一番危ないベルギー。歩いてはいけない道もある。ここでは観光を終えてから、夕方宿に入ることにした。まずはコインロッカーにリュックを預ける。駅地下コインロッカーに人は誰もいない。怖い。コインロッカーが開かない。二人で悩んで色々試す。うまくいかない。男性が一人、コインロッカーに向かってきた。声をかけてみた。「私も分からない」とでも言ったのか? 叫びに近い大声が帰ってきた。怖い。コインの両替で近くにあった売店で水を買い求めた。「何なのヨ~」のむっつり顔で最後までしかめ面を維持の若い女性店員。これから向かう世界遺産のグラン・プラスまでの道のりが心配で、思いが崩れそうだった。
 世界一美しいと言われるグラン・プラス。広場を取り囲む建物も圧倒的だ。その中の王の家でブリューゲルの絵に突然出会った。連れは嬉しくて仕方なさそう。出会いを求めて楽しみにしてきた絵が出張中でショックな事が何回かあったが、こんな出会いもある。ベルギーではやはりワッフル。果物、生クリーム、チョコレートなどのトッピング。持病を抱えた私たちには禁断の食べ物だ。一挙に数値を上げるだろう。正統派のただのワッフルを食した。王立美術館でブリューゲルを堪能して宿に入る。いつもは三流宿が常だが、今日は宿ではなくホテル感満載。しかも新築のようだ。金額を事前に確認して予約しているので高額ではないはずだ。しかし夕食は向かいのスーパーで調達。翌朝一泊だけのブリュッセルを後にした。
 ブルージュまでのチケット購入。ヘントで途中下車する。ここでの目的の祭壇画までもう少しだ。駅前のトラム乗車場にいた私たちに、現地の老人が声をかけてきた。「街まで2キロ。歩いて30分」流暢な日本語だった。目的地に着いた。その通りだった。自分の言葉の力を試したくて日本人目当てにその場にいる様子だった。ヤン・ファン・エイク。油彩で絵画を革新したと言われる画家。15世紀、富を蓄えた市民に依頼された絵。「ヘントの祭壇画」。神の手を持つと言われたヤン・ファン・エイクの超驚異的な細密技法。だが薄暗い教会でガラス越しの中、はっきりと、しっかりとは見えなかった。来られたことに満足しなければならないようだ。名物の塩味がきついシチューを食して、再び列車に乗り込む。


 ブルージュに出た。ベルギーならブルージュへ行きたい。数年前からおもい続けていた。夕方、駅から歩いて宿に入る。旧市街、観光地の真ん中だった。観光用の馬車が走る様子を二階の窓から見た。馬の足音が心地よい。翌朝、明るさの中で見た街並みは錆びれていない建物が並ぶ。どうも観光客目当てに薄化粧をしたかのように見てとれる。倉敷の美観地区のようだ。美術館は十分満足だった。メムリンク美術館、グルーニング美術館を堪能した。今、思い出しても再訪したい美術館だった。2泊してブルージュを後にした。
 北上し、アントワープへ。アントワープと名付いた駅が3つ。その最後の駅で降りるのだが、間違うような駅名の付け方だ。北・南・中央と続く。こんなことすらドキッとする。アントワープ中央駅。息を呑む大理石の美だ。世界一美しいと言われる。鉄道の大聖堂と称されている。メインストリートを宿に向かって歩いているとユニクロが目に入った。連れはエッフェル塔で手袋を落としていた。ここで手袋ゲット。宿は大聖堂の真向かいだった。トイレ、シャワーが共同なのが残念。暮れていく中、2階の部屋から大聖堂を見上げる。翌朝、あのアニメ「フランダースの犬」で知っていたネロとパトラッシュのアートな像が後付けで大聖堂の前に設置してあるのを見た。なんだか釣り合わない。観光客向けが明らかなようだ。
 教会に入るとルーベンスの「キリスト昇架」「キリスト降架」。ルーベンス工場といわれる多作な作品の中でこの2点は感無量。
 翌日、マイエル・ヴァン・デン・ベルグ美術館へ。ブリューゲルの「狂女フリート」は出張中だった。この美術館の目玉作品なのに。連れは未だに文句を言う。目玉作品の出張はありえないと。地球の歩き方に載っていたパン屋さんをたまたまキャッチ。ぶどうパン、ゲット。ロッテルダムまでの列車での昼食だ。
 ロッテルダム駅から歩いて目的地のボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館に行く。ここではこの美術館のみでまた駅へと戻る。ブリューゲルの「バベルの塔」はまたもや出張中だった。駅に降りてそのモダンさに驚いた。この街だけ近代モダン建築が目立っていた。立ち寄った街は旧市街地がほとんどなのでロッテルダムは降り立った駅には旧市街は面していないのかもしれない。
 次の街デン・ハーグへ向かう。ここでは一泊する。夕方駅から暗い道を1キロほど歩く。宿の二階部屋に通された。古いが広くて暖かい。なんだか食堂、廊下あちらこちらに骨董らしきものが置かれている。楽しい。明日は朝一番でフェルメールだ。
 美術館へ行く道には人工池。オオバンやカイツブリがいた。日本と同じ種だ。マウリッツ・ハイス美術館。テレビで何度も見ている「真珠の首飾りの少女」「デルフトの眺望」そしてレンブラントの名作の数々。ゆったりとした時間が流れた。小さい美術館。このくらいがいい。しかも名画揃いだった。ここで見た絵は時間を経てもどこで見たか、はっきりと思い出せる。

とんでもないお土産
 旅の締めくくり、最後の街アムステルダムの駅は大きい煉瓦造りだ。東京駅のモデルとなった。駅前のインフォメーションで運河巡りの水上バスと二日間有効の交通チケットをゲット。対応してくれた初老の男性はテキパキとしていて、拙い連れの英語力を理解して、仕事バリバリできます、の感で気持ちがいい。さっそく水上バスに乗り込む。風邪の調子今ひとつで船の上で綿棒で喉を消毒した。辛い。街が平らだ。水際の建物の湿気対策はどうなんだろうと考える。カビが嫌いだ。
 トラムで宿へ。天井が高い。そして一応清潔感はある。だが石鹸、シャンプー、フェイスタオルが部屋に設置されていない。照明は小さくて手元がはっきりしない。なのに廊下は異常に明るく、大きな照明だ。ゴミ箱もない。2泊したがこちらが言わないとタオル交換はできていなかった。そして最後にとんだおまけを持ち帰ることとなる。
 翌日、朝食を済ませてトラムを乗り継いで国立ミュージアムへ。あーっ、広い。なんだか博物館もプラスした様相だ。フルマラソン残り5キロ最後の踏ん張りどころ。そんな思いで入り口に足を踏み入れた。レンブラント「夜警」。世界三大名画と言われている。大きい。人だかりができている。じっくり見る。レンブラントの自画像が私は好きだ。隣のゴッホ美術館に入る。やはり人が多い。今や印象派の大スターだ。もちろん好きな画家。「ひまわり」が1枚もない。ちょっとひっかかる。世界中の美術館に納まっているのか。沢山のゴッホの絵は観たものの、なんだかしっくりこない。他の絵に混ざって、ゴッホだ! と観るのがいいのかなと思った。
 王宮、アンネ博物館はお休みだった。帰路のトラムに乗る。ホテルの近くでトラムを降りる。ユダヤ歴史博物館が目に入る。結構しっかりした内容の博物館だ。アウシュビッツに送られた若い女性、シャルロッテのコーナーが目に入った。日本のデパートで彼女の絵の展覧会が催されていた。ガラスの中の展示品コーナーにチラシを見つけた。惹きつけられる絵だった。ポストカードを買った。才能はこうしてたくさんの人に触れられている。ユダヤのもっと生きたかった人々がここにいたんだ。
 翌日、オランダから帰国の途についた。最後の宿でとんでもないお土産をもらった。帰路の機内でなんだか痒い。赤い点々があっちこっちに出ている。釧路ですぐ皮膚科へ。正体は〈ダニ〉。でも連れは大丈夫だった。なんでぇ?
 この旅はもう「絵」まみれだった。汐留のルオーから始まり、帰国後、上野でフェルメール展。近年、人気のフェルメールは混雑予想で事前予約が必要だった。上野の美術館は対応する女性職員たちがラピスラズリ色の服で迎えてくれた。
 フェルメール・ブルーだ。

『クスリ凸凹旅日誌』▶20話:空海の歩いた道。 高野山巡礼

2018年4月6日~11日
奈良、高野山、吉野山、松阪市

壇上伽藍といわれる高野山の修行施設群。その象徴である根本大塔

祖母の記憶
 父の母、ボクの祖母・塩ウトは徳のある人であった。気さくな人で子どもだったボクとテレビを見ながら「これは向こうの人もこちらが見えるんだろうかね?」と聞いたりした。「バーチャンはこうだからなぁ…」と小馬鹿にしていたボクも、今の時代になると、バーチャンには未来を予見できたのかも? とおもう。
 バーチャンは熱心な仏教徒であった。塩家の宗派は真言宗。弘法大師・空海である。バーチャンは何度か高野山や四国八十八カ所霊場巡りなどにも行っていたので、高野山や弘法大師のことも話や絵本の読み聞かせなどで教えてくれた。両親も中高年に入ってから同じように霊場巡りをしていた。父を湯潅する時は八十八ヶ所巡りの装束を着せ、杖を入れて納棺した。だからボクも…、というわけではない。
 例によって連れの発案で高野山の旧道町石道を歩こうということになった。高野山は標高約8百mほどの深山の平地に広がった空海が修行道場として開発した宗教都市である。
 高野山には高野七口と呼ばれる7カ所の出入口があるのだが、町石道は空海が最初に高野山の開発で造成した道であり、その道が今も山道として残っている。


 南海高野山線に乗って終点の極楽橋駅の六つ手前の九度山駅で下車。町石道の入り口である慈尊院まで九度山の街を歩く。大河ドラマの『真田丸』で真田一族が徳川家康に蟄居を命ぜられ、隠れ住んだ跡地の寺院を見物し、ご当地グルメ柿寿司を製造元でゲット。いよいよ町石道である。
 入り口の慈尊院は女人禁制であった高野山に空海の母が会いに来た処。母に会うため空海は九度下山したということが九度山の名前由来の一説だそうだ。町石道はここから高野山まで約23キロ、約7時間の散策コースである。標高差は約7百mで山道ではあるがハイキングコースとして整備されており、迷う心配はない。1町=109m毎に石でできた卒塔婆=町石(五輪塔を乗せた角塔婆という)があり、この町石毎に手を合わせ、高野山に至る(我々はそんなことはしませんでしたが)〈祈りの道〉であり〈修行の道〉である。
 これまで歩いた本州の古道は何処も森は杉の人工林になっており、残念ながら植生の多様性という点から見ると魅力に乏しい。ボクにとって歩くことの意味は、これ一つというものに絞れるものではないが「自然観察」はその一つであることは確かなのでその点では残念だ。しかし高野山に行くにあたって、この町石道を歩くということは、人生を振り返り、再生し生まれ変わる修行体験と考えれば、とても意義深い経験であった。
 町石は慈尊院から高野山の「壇上伽藍」と呼ばれる修行施設群まで180基、そこから空海が即身成仏として入定し、今も眠るとされている「奥の院」まで36基ある。
 前者は「胎蔵曼荼羅」、後者は「金剛界曼荼羅」という真言密教にとって重要な曼荼羅(密教の宇宙観や世界観を描いた図像)を表し、そこに描かれた仏の数にちなむのだという。ここを歩くことは〈仏の道〉に近づくこと。ということもほとんど高野山から戻ってから調べてわかったことであった。
 我々は宿坊と呼ばれるお寺の宿に一泊した。ここで一泊することも修行になるそうだ。何から何まで、ご利益がありそうだが…。ボクは観光振興に毒されているかも。

高野山の教え
 高野山には聖地のシンボルが二つある。一つは「壇上伽藍」と呼ばれる金剛峯寺や根本大塔などの修行寺院群。もう一つは空海が眠る「奥の院」である。町石道を歩いている間はほとんど人に会わなかったが奥の院には観光客がたくさんいた。驚いたことに半数いやそれ以上が外国人観光客。さらに驚くべきことは外国人観光客が欧州からの個人客が多いということである。アジア系の団体客が皆無。欧州からの観光客は、中山道を歩いた時も目立った。
 海外旅行で知ったのだがキリスト教の三大巡礼地は生誕の地エルサレム、ローマのバチカン、そしてスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラであり、巡礼の道というのは文化として根付いているのがヨーロッパだということである。多くの観光客は日本の寺院や、特に高野山を特徴づける奥の院の杉の巨木に囲まれた中にある30万基を超えるといわれる墓石や供養塔が作り出す日本ならではの聖地の佇まいに日本文化の一旦を感じるに違いない。また宿坊での宿泊体験(勤行や精進料理)も魅力的な観光資源になっているのだろう。ボクがロマネスクやゴシックの教会で彫刻や絵画、ステンドグラスに描かれた物語に魅入るのと同じで、そこには宗教を越えて迫りくる何かがあるのだ。


 ボクは特別信心深くもなく、我が家の法事もとりあえず参加する程度。高野山にも格別宗教的な目的を持って行ったわけではない。真言密教とは「言葉で伝えられる限界を超えたところに仏教の悟りがある」という考えだそうだ。言語に頼る宗派は顕教といわれるそうだ。
 ボクにとって歩く旅は、スピードやリズムに合わせて、過去を振り返り、未来を思索する。そして軟弱ではあるが山岳修行にも繋がるものと空海のことを調べながら行き着いた。
 「貴賎を論ぜず、貧富を看ず(亡くなってしまえば、男女も、貴賤もない)」「怨親平等(生あるものは皆、平等)」といった空海の教えをバーチャンの〈振る舞いの記憶〉がボクに諭してくれているようだ。奥の院には千人以上の高野聖を処刑した織田信長の供養塔もあった。
 仏敵と山のように積み上がった無縁仏の野仏が共に眠っている。死した後は皆、平等の教え。
 論より証拠である。

『クスリ凸凹旅日誌』▶19話:帰らぬ人を偲ぶ山旅

2017年9月10日~16日
後立山連峰(唐松岳、不帰ノ嶮、白馬岳、 杓子岳、栂池高原ほか)

無事、不帰ノ嶮を通過し、これから通過する登山者を見送る

三大キレットを踏破する
 山登りでキレットというのは岩の稜線で山と山の間の大きく窪んだ難所のことをいう。日本三大キレットというのがある。槍ヶ岳と北穂岳の間の「大キレット」。鹿島槍ヶ岳と五竜岳の間の「八峰キレット」。そして唐松岳と白馬岳の間にある「不帰キレット」である。すべて踏破したが、べつに目標としていたわけでもなく、特別な達成感があるわけでもない。ちょっと自慢になるのだろうか? 
 最も難度が高いのは大キレットだといわれている。しかし名前が良くない。文学的センスゼロの名前である。名前で言えば断然、不帰キレットである。正式名称は「不帰ノ嶮」。一度足を踏み入れたら戻れない難所が名前の由来だそうだ。そこはかとなく怖い名前だ。「不帰の客となる」とは、二度と帰らぬ人、つまり死んだ人のことをいう。間接表現が文学的なのである。怖いのである。
 ボクたちは小雨の降る中、夜もまだ明けきらぬ唐松山荘をスタートした。崩れる予報ではなかったが、降雨のキレット通過は危険である。
 何よりも岩が滑り、滑落の危険性が高まる。その緊張感の中、恐る恐る不帰キレットに足を踏み入れた。
 天気が悪いのはデメリットだけでなくメリットもある。雲の中を歩く感じだったので、あまり高度感を感じず、恐怖で足が竦むこともなかった。足元をしっかり見て、鎖やステップを確認しながら、一歩一歩、歩を進めた。
 不帰キレットの記憶はもうひとつの不帰、帰らぬ人の思い出と重なる。50代を過ぎて日本アルプスを登るようになってからは家族若しくは連れとボクの二人登山であったが、それ以前は北海道の山を友人や仲間達とワイワイ、ガヤガヤいいながら登山を楽しんでいた。
 この歳になるとその友人達にも不帰の人が増えてくる。

帰らぬ友の思い出
 2013年の冬に急逝した佐々木征志さんは市役所に入所してからずっと付き合いのあった友人であった。
 友人とはいえ、ボクより11歳年上であり、結婚式の仲人もしてもらったり、組合活動や様々な文化活動の指導を得た師でもあり、一緒に出版事業を行なった同志でもあった。
 病気で足の不自由だった彼はほとんど体育系と縁の薄い青春を送っていた。役所に入ってボクと出会った頃は組合の活動家であり、当時、社会党左派系の組合(釧路市役所には社会党系の市職労と民社党系の市役所労組という二つの組合があった)であった市職労にあっても独自の路線を行く論客であった。
 その彼が1980年代に入って、確か雌阿寒岳だと思ったが仲間と登山に行ったのをきっかけに登山にのめり込んだ。無事、頂上に立てた自信もあったのだろうが登山に目覚めたのである。
 思い出すのはボクたちがまだ結婚前で彼と3人で十勝連峰を美瑛岳から富良野岳まで2泊3日の縦走をしたことである。水場のない山で、ボクと連れは交代で15キロぐらいの荷物を背負って大変だった記憶がある。山中では写真を撮ったり、景色を眺めたり、彼のペースを気にしながらも3人は同じようなペースで縦走することができた。
 彼は連れの以保子さんと一緒に大雪山縦走や道内の様々な山、本州の八ヶ岳などを踏破。ボクの連れ合いとは知床縦走まで行っちゃったりしたのである。ボクはそれほどたくさん一緒に登ったわけではないが、八ヶ岳は最初の計画ではボクと一緒に行く予定で、台風の影響でそれが中止になり一緒に行くことは叶わなかった。あの時一緒に八ヶ岳に行っていたらボクの登山歴も少し変わっていたかもしれない。

出版という道を行く
 登山だけではなく思想書や哲学書などボクに縁のなかったジャンルの本をいろいろ紹介してくれたり、音楽・絵画など芸術系の刺激も受けた。今こうして文章を書いたり、少し論理的に物事を考えられるようになったのも彼の薫陶の成果だと思っている。
 初めて一緒に出版物を発行したのは1990年『北の家図鑑』である。もう一人の友人と「ワークショップわらじすと」という社名で釧路市内にある古建築をスケッチしていた鉄道職員のイラストをメインとした図鑑を発刊した。〈わらじすと〉は公務員と出版者という「二足の草鞋」が由来である。
 彼は読書家であり、当時の職場も図書館資料室勤務。公私共、編集者にふさわしい能力と才能を持っていた。筋金入りの公私混成である。ボクはといえば彼から譲り受けたアップルコンピューターを使いDTPソフト(DeskTop Publishing デスクトップパブリッシング)を駆使してブックデザインを担当した。
 若い時は組合活動や映画サークルなどで情報誌や会報作りをよくしていた。初期はガリ版刷り、次はワープロ印刷を台紙に貼り付けてレイアウトしていた。初めてDTPソフト(アルダス・ページメーカーであった)を使った時の感動は今でも忘れない。アップルが提唱していたWYSIWYG(ウィジウィグ。What You See Is What You Get の略で、パソコン画面上で見たとおりに出力結果が得られるというシステム)が目の前に展開した様はインターネットのウェブブラウザーを見たときをしのぐ感動であった。

 この『北の家図鑑』はプチヒットとなり、その収益で新しいコンピューターを買うことができた。ボクの人生はヒットには無縁で、競馬は詳しいが馬券は当たらず。宝くじも当選資金の供給のみ。クスリ凸凹旅行舎はこれまで5冊の書籍を刊行しているが元を取れたらベストである。今のところ、この時以上のヒットはないのである。
 しかし、ボクが現在、自然ガイドと出版業を手掛ける素地が培われたのは間違いなく彼の存在無くしてはありえない。
 彼は自らの登山体験や書評、音楽評、知友人からの寄稿などを盛り込んだミニコミ誌『自游人』を1982年から死ぬ年まで発行し続けた。文化人類学者の山口昌男氏も評価し、晩年交流もしていた。年を重ね、足の具合が加齢とともに思うに任せぬようになって彼は登山から、愛犬家に変身し、犬育てに没頭した。厳冬期の凍結路面の坂道で足をとられ頭部打撲で急逝したが、その時も愛犬の散歩中の出来事だった。
『自遊人』は通算57巻を数え死後、復刻限定版を友人達と発刊することができた。

 不帰キレットを抜け、白馬鑓ヶ岳と杓子岳を踏み、歩き続けて夕刻に白馬岳山荘に着いた。翌日は人気の白馬岳に上り、そこから小蓮華岳を経て栂池高原を経由し、ロープ―ウェイに乗ってスキー場を下り、白馬村に着いた。
 緩やかな北海道の山をおもわせる稜線、沼巡りや湿原を歩きながらこのルートだったら彼とも一緒に歩けたかもしれないなと思った。
 ボクと彼は腹が減ると機嫌が悪くなる質であった。山で食べた焼肉、菓子パン、おやつ。下山して「パーッとやろう!」と行ったレストランでの夕食。そんな些細なことを思い出しながら、不帰の客となった友を偲んだ。