「『クスリ凸凹旅日誌~24の旅のカタチ』」カテゴリーアーカイブ

『クスリ凸凹旅日誌』▶18話:フットパスを歩きながら

湖水地方のガイド付き半日ツアーは現地を理解するのにとても参考になり翌日からの自由行動がスムーズだった

2017年4月6日~17日 
英国(湖水地方、コッツウォルズ、ロンド ン)

アナロジカルな旅
 アナロジー( Analogy 類推・類比 )という言葉を初めて知ったのは佐藤優の著書だったような気がする。グローバル時代にあって課題解決のために同じような問題を抱えている地域を比較検討し、その類似点から解決への方向性を探る試み。
 著名な作曲家と懇談する機会があった。阿寒湖畔の前田一歩園三代目店主・前田光子の話をした。創設者・前田正名の意思を受け継ぎ、阿寒の森の保全とアイヌを含む地域社会の人々と自然の共生に向けて尽力した光子は、「阿寒のハポ(母)」として今も敬愛される。
 話を聞いた作曲家は英国のビアトリクス・ポターの話をボクにしてくれ、是非一度、湖水地方に行ってみて、とアドバイスをくれた。ピーターラビットは連れが全集を持っていて、家の中にもコーヒーカップや食器に、以前は風呂の桶までピーターラビットが描かたものがあり、身近な存在であった。しかし、その作者のことはとんと知らず。ビアトリクス・ポターと前田光子の共通点を調べることは単なる雑学を超えて阿寒の観光振興策についてのヒントを与えてくれるのではないか、という期待が生まれた。
 『ミス・ポター』(クリス・ヌーン監督 レネー・ゼルウィガー主演)という映画も公開されていて、少しずつポターや湖水地方の情報や知識は膨らんでいった。しかし時間とお金に余裕のない阿寒湖温泉生活の間、湖水地方を訪問する夢は実現せず先送りのままであった。その間、観光客の入り込みは長期低落傾向を続け、一方で従来の温泉地として新たな魅力の掘り起こしに地域は苦慮していた。他と違う観光地としての差別化や自然の魅力を観光資源としていかす方法等々。それはボク流にいえば新たな〈旅文化〉を探る試みであった。
 阿寒の仲間と「阿寒クラシックトレイル」という探検家・松浦武四郎や先人たちが歩いた古道を探訪するルート開発もその具体的な試みのひとつであった。
 戦後日本の観光文化は一言で言えば「るるぶ(泊まる・食べる・遊ぶ)」に集約されるかもしれない。しかし多様性にあふれたグローバル社会にあって、競争原理に巻き込まれないオンリーワンの魅力づくりは、阿寒湖温泉という地域社会の持続可能性のために必須のものとなりつつあった。
 市役所を退職し、阿寒湖温泉を離れ、釧路で自然ガイドを始めてから4年目。やっと湖水地方を訪れることができた。
 旅のテーマは、アナロジカルな視点で阿寒湖温泉と湖水地方を考えることと、イギリスのフットパスで歩く観光を考えることの2点であった。

ネット時代の旅
 ボクたちの旅は基本的には個人旅行なので、すべては個人で手配することになる。インターネット時代の変化を最も痛感したのはこの旅行であった。飛行機や宿泊ホテルの手配はこれまでも「トラベルコちゃん」や「ブッキング・コム(Booking.com)」「エクスペディア(Expedia)」などを使って国内旅行と変わらない感覚でスケジュールを組んでいた。しかし、この旅はフットパスを歩きながら移動するため、接続する交通機関は地域の路線バスや鉄道であった。またフットパスの地図や所要時間などの情報も必要であった。結果的にこれらはすべてインターネットで情報提供されていた。なんとイギリスのパブリック・フットパスは全てではないだろうがほぼ網羅されているデジタルデータがネット上で公開されている。
 さらに驚くべきは地域の路線バスの走行ルートと時刻表(これは必ずしも正確とは言えない部分もあったが)もちょっとした英語力があれば調べることができた。ボクたちはまだスマホユーザーではなかったので、これらの情報は必要な箇所をプリントアウトして持参したがスマホを使えばもっと楽チン。バス料金の支払いもガード決済で出来た。
 また、地球が狭くなったことを実感もした。アジアの極東の地・釧路からイギリスまで、1日で行くことができることをご存知だろうか。
 我々は午前1時に起床し、2時に釧路を自家用車で出発。新千歳空港から韓国仁川空港経由の大韓航空でヒースロー空港に着き、国内線を乗り継ぎ、マンチェスターに到着したのはその日の午後10時であった。つまり8時間の時差オマケつきの1日32時間で目的地に着いた。
 旅はイギリスの労働者が「歩く権利 Right of way 」を獲得したマンチェスターからスタートし、1日目はウインダミア湖を中心とする湖水地方周辺を現地のネイチャーガイドの案内で全体を把握。2日目は湖上を渡り対岸のビアトリクス・ポターがトラストで保全したヒルトップを見学しバスを乗り継ぎワーズワースが暮らしたグラスミア湖周辺のフットパスを散策した。
 翌日は湖上遊覧でウインダミア湖南端から蒸気機関車に乗るアトラクションに参加。その後、湖水地方を離れコッツウォルズ地方のフットパスを散策するためチェルトナムまで列車で移動。ここからフットパスを歩きながらバスを乗り継ぎコッツウォルズ・ウェイと呼ばれる164km に及ぶ代表的なフットパスの部分を虫食い的に歩きながら終点のチョッピング・カムデンという街まで2泊3日歩いた。
 好天に恵まれ春の草花やバードウォッチングを楽しみながら、イギリス人の〈歩く文化〉の一端を感じることができた。その後、我々はロンドンで2日間過ごした。ロンドンにはテムズ川沿いにテムズパスといわれるフットパスがあるが、我々は街歩き観光と美術館巡りで楽しいイギリス旅行の締めを堪能した。

歩くことの意味
 この旅は阿寒の観光振興の行方やボクのネイチャーガイドとしての方向性、そして旅文化そのものについて多くの示唆に富んだ旅となった。阿寒の観光振興については、機会があったらとおもい準備をしているのだが、今現在、声はかからない。老いたるは出しゃばるなを旨としているので、これは機会がある時に。
 旅から帰ってしばらくしてから歩くことの意味についてとても参考になる一冊の本に出会った『誰も知らなかった英国流ウォーキングの秘密』(市村操一著 山と渓谷社)である。
 イギリスのウォーキング文化について我々も歩いた現地を紹介しながら、散歩する権利についての歴史的な紹介や日本のウォーキングについての考察など、とても興味深いテーマが記されていた。
 特に著者が「歩くことの意味」を10のウォーキング・スタイルに類型化し整理していることが興味深かった。①思索の― ②宗教的― ③自然観照― ④達成への― ⑤訓練の― ⑥余暇活動としての― ⑦コミュニケーションのための―⑧教育的― ⑨見せる― ⑩健康のための― である。自分を例にとれば毎日の散歩は①と⑩で連れと一緒の場合は加えて⑦である。登山は③④がメインだが振り返ると①⑤も…。お客様をガイドする時は⑧だがお客様の様子に合わせて①や③も意識する。 
 ボクにとっての「観光振興」とは観光資源の掘り起こしであり、発見であり、それを享受する術である。市役所の観光部門に勤めていた時もネイチャーガイドとして仕事をしている現在も基本的には変わらない。その基本をボクは〈歩く〉という移動の原点に探し続けているように思う。だから〈歩く〉ことの意味を考えることは、ボクの〈旅文化〉そのものを見つめ直す契機にもなる。
 湖水地方にあって、阿寒に無かったものは何か? 
 ボクは④自然観照のウォーキングに注目した。「観照」は「鑑賞」とは違い、「静かな心で自然に向かい、その本質を見ようとする態度」(同著より)という意味である。詩人ワーズワースが愛したグラスミア湖のフットパスや芭蕉が歩いた奥の細道のような、自然と対話し自分を見つめる散策。与えられる教育的観察ではなく、自然の本質を散策者自らが探究する態度である。
 「自然は偉大なる師なり」(前田光子)という謙虚な態度で自然と対峙した前田光子の心と重なるウォーキングルートが阿寒にもっとあっていいのではとおもう。現在も「光の森」があるが、もっと開放されて多くの人に「観照」を楽しんでほしいとおもう。
 阿寒クラシックトレイルをボクはどんなおもいで始めたのか? 仲間や参加者たちはそこにどんな思いを持っていたのか? この10の類型化をモデルに考えてみるとそれは一つではなく、きっと複数の組み合わせで作られているように思う。そこに「観照」の視点はあったのか? 
 「るるぶ」に集約される旅文化が多様性を帯び、グローバルな人の交流とインターネット時代の情報交換により変貌していく。「文化とは歴史的に形成された外面的および内面的な生活様式のシステムでありグループの全員もしくは特定の成員によって共有されているもの」(哲学事典平凡社)という文化の解釈に従えば、コロナ禍のなか、新たな生活様式が求められる現在、我々の〈旅文化〉も必然的に見直しを迫られる時を迎えている。
 〈歩くことの意味〉を通して、そのことを〈歩きながら=旅しながら〉考え続けて行きたいとおもう。      

『クスリ凸凹旅日誌』▶17話:恐怖の文学トレッキング

2016年9月26日~10月3日
黒部峡谷下ノ廊下 飛騨高山 中山道ほか

黒部峡谷の岸壁沿いに進みます。増水すると危険なので悪天候には引き返す判断も

ヤバい処に来てしまった
 これまで歩いてきた山行で一番スリリングで、意外性があって、貴重な体験として記憶に残っているところを挙げるとすれば黒部峡谷の下ノ廊下は外せない。下ノ廊下というのは地名であり、黒部ダムで有名な黒部湖の下流を指す。ちなみに上流には、中ノ廊下や上ノ廊下がある。
 大正末期から昭和の戦争を挟んで日本の水力発電を牽引してきた日本電力(現在の関西電力の前進)の発電所が建設された。その調査や作業用資材の搬入のために渓谷の岩壁に人が一人通れるほどの道が岩をくり抜いて造られた。
 どれほどスリリングかといえば、広いところでも人がやっとすれ違えるほど。スペースを確保できない箇所には幅60㎝ほどの板が渡され、最も細いところでは足の幅半分位のステップだ。岩場に張られた番線(太い針金)を頼りに恐る恐る歩を進める。それを踏み外すと100m前後の下を流れる黒部川に真っ逆さまに落ちることになる。
 愛用する『山と高原地図』(昭文社)によれば、一般登山道で危険だといわれている大キレット(槍ヶ岳から奥穂高岳まで)の地図についている危険マークは2箇所。この下ノ廊下についているそれは6箇所もある。現にこのルートでは毎年滑落事故や岩壁からの落石による事故が絶えない。

魅力のガイドブックを携えて
 昭和11年から15年にかけて行われた阿曽原から仙人峡までをつなぐ隧道建設は、高熱岩盤帯を貫く想像を絶する高熱との格闘の連続で困難を極め、多くの犠牲を伴う工事となった。
 その様をつぶさに小説化した吉村昭の『高熱隧道』はこのルートを歩く者にとっては必読ガイドブックである。
 工事では資材搬入時のボッカ(運搬人夫)の滑落事故、隧道掘削の発破作業の爆発事故、そして越冬期に襲われた泡雪崩と呼ばれる特異な自然災害による事故で3百人を超える死者を出している。それでもこの工事が完成を見ることになるのは日帝侵略主義による戦争を支えるための電力需要を確保する国家的命題に支えられていたことによる。今でいえばありえない労働環境や数々の法律違反を犯し、結果的に多くの犠牲者を生んだにも関わらずこの工事が完成したことはその社会的背景を抜きにして考えられない。
 また自然の脅威として越冬期の作業人夫宿舎を吹き飛ばした泡雪崩と隧道掘削における高熱の脅威に代表される、科学の知を越えた自然と人の戦いが、この小説を通して知られることになる。
 ボクらはこの理不尽な工事がもたらした膨大な犠牲と先人たちの知恵と度胸で培われた電力の恩恵に浴した高度成長期体験世代である。その礎に人知れぬ山奥の渓谷で行われた自然と人の想像を絶する闘いがあったことを知る。ボクは歩きながら、「これだから原発はやめられないんだなぁ」と呟いた。

なんとか山旅を終えて
 このルートは連れがずっと実現をあたためてきたもので、その強いおもいがなければボクは一生こんな所を歩くことはなかっただろう。下ノ廊下は立山連峰と後立山連峰の間に位置する渓谷であり、日本最大の豪雪地帯の最も急峻な谷間のため、雪解けから初雪までの間が非常に短く、かつ傷んだルート補修に時間もかかり、実質的な通行期間は9月の末から10月一杯ぐらいまでである。
 ルート上の唯一の山小屋である阿曽原温泉小屋の主人によれば、3年から5年に1度は年中通行できない年があるとのこと(2020年はコロナ禍で山小屋は閉鎖したがキャンプ場は開設された)。さらに秋口の日照時間は短く、行動時間も限られてくる。我々が信濃大町始発のバスに乗って黒部ダムに到着したのは7時頃であった。そこから約11時間ほぼ休みもなく、昼食も立ったまま済ませ、断崖絶壁からの滑落と落石の恐怖にずっとさらされながら山小屋に着いたのは日も暮れる午後6時過ぎであった。
 阿曽原温泉小屋はその名の通り温泉の露天風呂があるプレハブの山小屋で、冬期間はプレハブを畳んで小屋じまいをするそうだ。身も心も疲労困憊の登山者にとって小屋から歩いて10分ほど下った谷間にある露天風呂はこの世の天国である。しかしその脇には高熱岩盤帯を貫く隧道の横坑が地獄の入口のように今もその姿をとどめている。
 翌朝は山小屋からさらに下る水平歩道と呼ばれるルートを終着点のトロッコ列車の発着駅である欅平までを行く。確かに高度差はあまりないので〈水平〉という表現に異論はないが、この歩道は岩をくりぬいた岩壁のくぼみを歩くのでここにも針金の番線が所々に配置され、落下事故を防いでいる。年をとって足元が不安になった登山者は行ってはいけないところである。
 我々は好天の秋日和の一日目を終え、二日目は雨降る中、無事、欅平まで降りることができた。この旅の予習で『高熱隧道』を読み、旅から帰ってきて復習を兼ねて再読し、今回記憶を呼び覚ますためにまた読んだ。
 下ノ廊下をまた歩くことはないだろう。〈今だからできること、今しかできないこと〉を旅のテーマにルートを選んできた我々にとっては、最も過酷な行程であり、それを無事歩くことができたことは、これ以上ない幸運である。
 欲張りは禁物。『高熱隧道』という珠玉の歴史文学ガイドブックを開けば、下ノ廊下を探訪する〈記憶の旅〉を何度も体験できるのである。

『クスリ凸凹旅日誌』●随想③絵画へのめざめ

カラバッジョ3部作があるサン・ルイージ・デ・フランチェージ教会(ローマ)

 旅先にひとつの目的だけで行くようなオタク系ではないボクではあるが、これまで親しんできたサブカルチャー(写真、映画、競馬、アウトドア、ジャズなど)に絵画が加わったのは最近のことである。この分野も連れの方が先行し、ボクは後方待機の状態であった。
 連れと一緒の最初の海外旅行はイタリアであった。連れにとっては須賀敦子という作家の存在が大きかったのだが、ボクにとっては予習として手にした西洋絵画についての本が以後のボクのカルチャーライフにとって優秀なガイド役となった。
『大橋巨泉の超シロート的美術鑑賞ノート』(大橋巨泉著 ダイヤモンド社刊)。著者自らが超素人というくらい「65の手習い」ではじめた西洋美術への案内本である。出版元が『地球の歩き方』のダイヤモンド社であることも何かの縁。
 この本はその後、計5冊のシリーズとなり2016年に巨泉氏は亡くなる。思えば初期テレビ世代のボクにとって、大橋巨泉はサブカルチャーの伝道師のような存在であった。その教本は同氏司会の「11PМ」という番組(確か月・金が巨泉氏の担当日)。ボクは小学校高学年の頃から「ボーイズライフ」(小学館刊)という月刊誌を定期購読していた。F1や戦艦戦闘機や洋画など、それは主に欧米文化のサブカルチャーを思春期前後の少年向けに紹介しているものであった。
 高校受験の時、夜、勉強してひと休みと称して親の寝ている間に11PМを見るのが楽しみであった。オープニングのピンナップガール、新作洋画の紹介、そして競馬のクラシックレースの予想等々。11PМの後は全盛期だったラジオの深夜放送を3時ぐらいまで聞いて寝るのである。親は勉強していると思っていたはずだが、11PМ以降はほとんどサブカルチャーの時間であった。


 ボクのカルチャーライフを書いたら長くなるので、連れと行った2016年のイタリア旅行以降の西洋美術についての話に絞りたい。
 三度の海外旅行。東京や各地での展覧会など西洋美術鑑賞はこれからも継続しそうな勢いなのである。
 イタリアで最初に観た絵画は、ベネチアのスクオーラ・グランデ・ディ・サンロッコ(略して大信者会)で観たヤコブ・ティントレットの「キリスト磔刑」をはじめとする作品群。その後にサンタマリア・グロリオーサ・デイ・フェラーリ教会(長い!)でティッツァーノの代表作の一つ「被昇天の聖母」を観た。
 実物を見る喜び。あえて「本物」ではなく「実物」というのは、少しこだわりがあって、実物の対義語は「模型」。本物の対義語は「偽物・贋物」である。絵画の世界には模写された複製画を見る機会も多い。先ごろ釧路市立美術館でフェルメールのほぼ全作品複製画の展覧会があった。それは現代技術を駆使して、フェルメールが創作した当時の色彩を再現し複製されたもので、偽物とはちょっと違う。やはり実物に対しての模型といったほうが馴染むのである。これはこれで価値のある表現物だと思う。


 実物を見る喜びは、教会で絵画を見ることで少しその本質が解けたような気がする。美術館に飾られるタブロー(板画やキャンバス画)と違い、教会に飾られる壁画やフレスコ画は備え付けである。教会という空間、そこを訪れる信者、観光客も含めて生み出される空気感、匂い、気配など、その絵画を取り巻く全体を体感することが鑑賞体験となる。
 ローマで最初に見た絵画はサンタマリア・デル・ポポロ教会のカラバッジョ作品であった。ボクはここでのカラバッジョとの出会い以降、追っかけ(逃げてはいかないが)になるのだが、彼の作品には教会の依頼で描かれた宗教画(多くは壁画)が多い。その実物に出会うためには現地に赴かなくてはいけないのだ。
 カラバッチョ追っかけのもう一つの要因は最初のイタリア旅行から帰国した直後、東京でちょうど「日伊国交樹立150周年記念カラバッチョ展」が開催されていた。そこで未見だった実物の何点か(「エマオの晩餐」と「マグダラのマリアの法悦」が忘れがたい)を見ることができ一気にカラバッチョの現存する作品の半数近くを観ることができ勢いをつけた。


 ルネサンス絵画からスタートしたボクらの西洋美術カルチャーツアーは、巨泉氏の著書をガイドブックに北方ルネサンス、バロック、17世紀オランダ絵画、ロココ、新古典主義、写実主義、印象派…と続き、旅先での教会、修道院や美術館、博物館巡りがスケジュールの中で大きな比重を占めることになる。あまりにたくさんの美術館等を巡って多数の絵画を見たので、連れは「どこで見た作品か分からなくなる」と苦言を呈す。
 ボクは小さい頃から映画や写真、テレビなどの視覚文化に親しみ〈視覚の記憶〉にはそれなりに自信があるので、どこの街でなんという美術館でどの作品を見たかについては、ほぼ記憶にとどめている。
 ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ボッティチェリ、フラ・アンジェリコ、ブリューゲル、レンブラント、ベラスケス、フェルメール、モネ、ゴッホ、ピカソなどの有名どころはもとより、この旅で知ることとなった巨匠たち、ヤン・ファン・エイク、ルーベンス、ターナー、マネ、ホルバインなども魅力的。そしてお気に入りであるヘリウッド・ダウやアダム・エルスハイマーの細密画もボクのカルチャーライフをひときわ豊かにしてくれた存在である。
 ほとんどの美術館や教会で写真を撮る(ノンフラッシュだが)ことが出来て、日本の展覧会のような厳しい監視員の目もなく、小さな絵画も近づいて見ることができるのは「鑑賞」にとっては極めて重要である。ルーブルでもっとも鑑賞時間が長かったのはフェルメールの「レース編みの女」でA4判くらいの小さな絵であった。細密表現を堪能できるのである。プラド美術館にあったエルスハイマーの「ケレスの嘲笑」は学芸員に場所を教えてもらいやっとたどり着いたが、これもA4判くらいで、夭逝の天才の細密表現を堪能した。


 実物を見る喜びは現場の臨場感に加え、それを取り巻く建築物や街の景観、彫刻などに広がりを見せつつある。教会もキリスト教のみならず、イスラム教と合一したビザンチン様式やロマネスク様式、ゴシック様式、そして独自の融合を見せるサグラダファミリア教会などもあり、興味の広がりは尽きない。
 巨泉氏は著書のあとがきで「65歳から始めた西洋美術鑑賞で得た感動を一人でも多くの同胞(この場合の「同胞」は同士や同志という意味合いに受け取った)と分かち合いたい、という思いで専門家の書く解説書ではない。「ボクはこう感じた」だけを書きたかった。」と書いている。我々夫婦は〈62歳から始めた手習い〉で、いつまで続くかは分からないが、自分が感じたことに少し自信が持てる年頃になったことを自覚している。それはこれまで蓄積してきたカルチャーライフがもたらした果実であり、その木に滋養を与えてくれた先人たちの存在は忘れない。
 自分の美意識や感性は歴史の積み重ねの延長上にある。
 多くの災難や宿命を抱えながら表現に身を賭した芸術家たちの足跡を訪ね、その歴史や社会的背景を西洋美術を通して知ることが出来るのも大きな喜びである。それは国や民族や宗教を越えてボクたちを感動させ、芸術のもつ力を教えてくれる。

『クスリ凸凹旅日誌』▶16話:ルネサンスに開眼した時

ヴェネチアは海と運河の香り、そして東洋と西洋の香りも入り混じった街

2016年3月26日~4月6日
イタリア~ベネチア・フィレンツェ・ロー マ
塩 幸子

真夜中のヴェネチア
 もう10年以上も前にカラバッジョ特集のテレビ番組を見た。絵筆の秀逸さに惹かれた。しかし荒ぶる性格で、揉め事を常に起こし、ついに殺人まで犯す。そしてイタリアの海岸で野垂れ死ぬ。その生き様に興味を持った。この殺人犯がイタリア紙幣の顔として印刷されている。犯罪者が日常使う紙幣に登場することなど日本では考えられない。そんなカラバッジョが犯罪以上に人々に感銘を与えた絵を求めて初めてのイタリアに足を向けた。
 全くと言っていいほど接触がなかった異文化をこの旅で、どこまで受け止められるのか。出発までは約3ケ月、こんな短時間では深い学びは無理だ。だが何も手つかずのままで行くわけにもいかない。
 ヴェネチア~フィレンツェ~ローマ、『地球の歩き方』を読みながら、この三つの街の地図を日々眺めて頭に入れた。次に主要な見所の確認。その歴史や成り立ち。図書館から関係本も借りてきた。読んで調べて浅い知識で旅立った。


 成田からローマ、ローマで乗り換えてまずはヴェネチアへ行く。乗り換えの飛行機がいつまでたっても飛び立つ様子がなかった。日本でなら客に納得のいく説明があるはずだ。機内の窓から見た外はすでに日が落ちて真っ暗だ。しびれを切らした客が時々叫びのような声を出して文句を言う(イタリア語)。あわてた様子もなく乗務員が声を荒げた客にだけ向いてなにやら説明している。そんなことを何度か繰り返し待たされること約2時間、どうにか動き出した。真夜中のヴェネチアに到着。頼んでいたタクシーは待ってくれた。時間の遅れはどうも日常的な事かと思われた。
 観光地である海に浮かぶ島の中ではなく、けっこう離れている郊外に宿はあった。翌朝、宿の近くの売店にバスチケットを買いに出かけた。売店は休みだった。次の売店を探しているうちにバスはやってきた。あわてて乗り込み目的地で降りた。タダ乗りだ。
 世界的な観光地であるこの世界遺産の浮島を朝から夕暮れまで歩いた。ティントレット、ティツィアーノ、二人の絵は見たような気がする。後で記すが私は腸が弱い。アカデミア美術館は記憶にある。浅い知識で学んだビザンチン様式の絵をなるほどと…。この広い美術館にトイレはワンフロアのみだったと思う。トイレに3回走り通った。たくさんの橋を渡り、水上バスに乗り、なんだかぼーっと一日が過ぎた。食いきれなかったこの街に今も残念な思いが残る。


 登山は悪天で足止めを決めざるを得ないことがある。計画には予備日を入れる。その予備日で下山後、旅先の美術館にはよく立ち寄る。私と連れは欲張りで目的地のほかに必ず近くの観光地や美術館を回るのだ。もうかれこれ30年くらい前のことになるが、日帰りで札幌まで何度か絵を見に出かけた。一人の時。娘と二人で。時には友人達とも。連れは全く興味を示さず一緒に出かけることはなかった。その後、退職した連れは私が買い求めた『芸術新潮カラバッチョ特集』を私よりその中にのめり込んだ。同雑誌のフェルメール、ブリューゲル特集も私より深く見入っていた。図書館で絵画関連の本を次から次と借りて、時には買い求め、いっぱしの専門家の様子を見せていた。なんだか先を越された感で勢いづいた連れとイタリアの旅を続けた。         

    
フィレンツェからローマへ
 フィレンツェは列車で2時間。快適だ。何といってもトイレ付きだ。バスはもう無理。高速道路なんか走られたらいきなりの途中下車はできない。安心してトイレに駆け込みたい。私は腸が弱く、下痢気味の体を抱えてここ数年暮らしてきている。いつ来襲するのかわからない敵が怖い。だからバスには乗れない。ガイド付きの旅の移動はほとんどがバスとなる。そんな中では旅はストレスの塊のようなものだ。
 フィレンツェ駅内でまずリュックを預けた。駅前のインフォメーションでフィレンツェカードを購入した。72時間有効50ユーロ。市内観光名所、美術館、交通機関の利用がほとんどOKだ。滞在2泊3日の私たちには都合のよいカードだ。しかし入口のカード提示でスパッと入れないところが多く、離れた場所でチケットを見せて整理券をもらわなければならない面倒なことも多々あった。どうしてスムーズに入れないのか??? だった。
 フィレンツェカード片手にインフォメーションを出て少し歩く。数分で道を折れて見上げるとフィレンツェの象徴、花の聖母教会ドウォーモがそびえ立っていた。いきなりの出会いだった。その大理石の堂々たる姿にただ引き込まれた。
 白、ピンク、グリーンの大理石。幾何学模様で飾られている。ぐるっとひと回りした。全体がそのいで立ちだった。ブルネレスキ設計。何度も読んで覚えた名前だ。クーポラ(塔)に登った。螺旋階段のようにぐるぐる回りながら一列に並んだ人々が一段一段上る。終了ギリギリに登り口に並んだのでスムーズに登れた。午前中はドウォーモを取り巻くような長蛇の列だった。クーポラから街が一望だった。ルネサンスを迎えてダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠たちが行き交った街を見下ろした。2007年に他界した弟の写真を取り出して街全体を見せた。主要な観光範囲を歩いて回れるこの街を、学んでようやく覚えた建物や広場に次々と出会えた。下準備はこの街に一番時間を費やしたのだ。隆盛を極めたメディチ家リッカルディ宮が私の一番の楽しみだった。支配者コジモがゴッツォリに依頼して描かせた部屋の壁一面のフレスコ画『東方三賢者の礼拝』だ。三賢者はメディチ家の主要人物3人の姿に描きかえられている。あまりにも美しい壁画だ。写真OKだった。だが連れのとんでもない失態で写真は一枚もなく。辛い思い出となってしまった。残念!


 フィレンツェからおよそ2時間、ローマに着いた。この旅の最後の街だ。イタリア一の都市でも地下鉄は二本ポッキリ。東京のとことん掘り尽くされた迷路のような地下鉄と比べるとなんとも心細いが、動きやすくわかりやすさが良かった。ローマは掘れば次から次と出現する遺跡で調査しながらの建設はそうそう簡単ではないようだ。現在3本目を建設中と聞いた。
 フィレンツェのホテルで朝、階段を踏み外して、足首を捻挫していた。ローマ散策中に痛みが増しホテルに戻った。明日のバチカンはどうなるかと思いつつベットに横になった。夕食を抱えた連れが戻ってきた。ほんの数時間だが結構回復していた。翌朝、痛みはほとんどなくなり計画通りにバチカンに向かった。今回の旅で初めてガイド付きのバチカンだ。日本人専門のガイドさんに7人の個人旅行客が集まった。ローマの歴史、バチカン周辺の建物の話を聞いて、いざバチカンの内部に。一般の入場口とは別のガイド専用の入り口から待たずに入場となった。ミケランジェロのピエタ、システーナ礼拝堂の天井画、そして最後の審判はやはり圧巻だ。
 そしてカラバッジョだ。バルベリーニ宮『ユディット』の衣装の白いブラウスに心を奪われた。超細密画とは異なる味のある布タッチが好きだ。フランチェージ聖堂のバロック絵画を代表するといわれるマタイ三部作でも『聖マタイと天使』の天使の身に巻きついた白い布もぐるぐる巻きだ。ポポロ教会の2枚も好きな作品だ。ポポロとフランチェージは祭壇画。門外不出で世界中どこへも貸し出しはできないだろう。ここでしか会えない。今回のローマでは見ていないカラバッジョの作品がまだまだある。再度のローマで会いたい。連れは南イタリアにも祭壇画を見に行きたいと力説している。

『クスリ凸凹旅日誌』▶15話:フォトジェニックな旅

2015年9月29日~10月5日
長野・善光寺、小布施 松本市 常念山脈 (燕岳~蝶が岳)

花崗岩のレフ版効果でいつもよりもっと美しく!

「インスタ映え」か、「フォトジェニック」か
 旅先で写真をたくさん撮る。一週間前後の国内旅行で約3百カット。2週間弱の最も長かった海外旅行では1千5百カット以上撮ったこともある。
 カメラを盗まれたとか、撮ったはずが写っていなかったとか、大きな失敗はないが、デジタルカメラの使い始めの頃、電池容量が分からず交換バッテリーも1個だけで充電器も持たずに出かけ、旅先で撮影不可状態になった。忘れもしないフィレンツェのリッカルディ宮で部屋全体にゴッツオリの「東方三博士の巡礼」が壁画になっているところでアウト。この絵がお気に入りの連れから叱られた。
 撮影は興味のあるもの=撮りたいもの。小さな花から遠くの山まで。マクロ撮影から望遠までが守備範囲である。


 旅先に持っていくカメラは、現在は4台の内のいずれかとスマホ。一番使用頻度が高いのは右端のニコンCOOLPIX。高校時代、写真部からの友人であるO君が退職祝いにプレゼントしてくれた。海外旅行から登山まで、とにかく軽量でいつでも取り出せ、どこでも撮影が可能な一台である。大体このカメラとスマホが旅の相棒である。重い一眼レフはご法度である。
 右から2番目のキャノンPowerShotは自前のカメラ。主に仕事で野鳥や風景を撮る時や荷物に余裕のある時に使う。
 一番大きなペンタックスはボクの写真部の先輩、Uさんの形見である。彼と一眼レフの使い方を忘れないように、たまに使う。

我が舎のカメラ撮影機材一式。ちょっと頼りない感じもしますが、そこは腕でカバー


 写真部の顧問はアマチュアカメラマンとして実績のある方で、指導を受けたボクらの前後4世代くらいは「お前達を写真で食っていけるようにする」という方針で指導された。
 当時はモノクロ写真だけであったが現像、焼付、パネル貼りまでの製作工程はもとより、撮影技術、時にモチーフに対するアプローチの姿勢なども指導を受けた。クラブの顧問というより、どこかの写真家の工房に弟子入りしたような雰囲気だった。だからほとんどのメンバーは〈写真の道〉で生計を立てることになる。ボクのように公務員になったものは少数派で肩身が狭い。
 ボクは写真をうまく撮ることが上手ではなく、在学中も後輩たちが道展(北海道主催の文化展)や各種カメラ雑誌やコンテストに入選するのを横目に、下級生にレギュラーポジションを奪われた上級生の悲哀を味わっていた。
 写真で食べていく道は選ばなかったが、写真や映画、そして絵画など視覚芸術文化に対する興味の土壌はここらへんで形成された。


 SNSの時代ではあるがボクはFacebookしかやっていないので、今の「インスタ映え」というのがピンとこなかったがフォトジェニックとほぼ同義といわれれば納得である。正確にいえば海外ではフォトジェニックは人に関しての「写真映え」。主に美男美女の映画スターの顔立ちに関してフォトジェニックという言い方が一般的であった。現在、わが国では風景や食べ物も含め、「インスタ映え」といえば、ビビットな色合いの変化をフォトレタッチ技術でさらに派手にした状態というのがボクの解釈。
 山に登っても花や鳥、風景やありとあらゆるもので気になるものは写真に撮るので、連れの歩行ペーストと合わなくなる。そもそも連れの方がペースが早いのに、さらにこちらが遅れると待たせ困らせることになる。一方〈写真を撮る〉ということが疲れた時の口実になるので、ボクにとっては様々な意味で助けになる。

フォトジェニックな山
 燕岳は花崗岩で形成された山で、山頂周辺は白い岩石が露出して山全体が色白の美人のような、優しくて美しい印象の山だ。
 この山はフォトジェニックな山である。山そのものだけでなく、周りもフォトジェニックにする山だ。人気の山小屋・燕山荘も山の風景に溶け込んでフォトジェニック。秋の紅葉と常緑樹や山容が織りなす絶景。ライチョウの生息地であり、日本の雷鳥は人間にいじめられた経験が薄いようであまり逃げないのでとてもフォトジェニックな野鳥である。ちなみに欧米でクリスマスの時期に食べる七面鳥は、以前は雷鳥だったらしく、ヨーロッパの雷鳥は人間を見たらすぐ逃げるそうだ。北海道にもエゾライチョウという別種の雷鳥がいるが、これはきわめて美味な狩猟鳥で、とても用心深い。


 燕岳がフォトジェニックなのはもう一つ理由がある。人間のポートレートを撮る時、レフ板という反射板を使って下から光を当てると、とてもフォトジェニックな写真が撮れる。テレビの女性アナウンサーをよく下からライトを当てて、見栄え良く映している。燕岳の白い花崗岩で山頂全体が天気のいい時はフォトスタジオみたいな状態である。だから登山者は誰でもフォトジェニックな記念写真が撮れる。
 この燕岳から常念岳、大天井岳、蝶ヶ岳に続く登山道は〈北アルプスの表銀座〉と言われている。銀座とつくぐらいなのでフォトジェニックな場所なのである。このルートから眺める槍、穂高の山並みや遠望する富士山や麓の田園風景など、まことに美しくその景色を堪能しながら稜線を優雅な気分で歩くことができる。


 ボクたちは蝶ヶ岳から下山し、豊科のマチに降りた。このエリアは山岳写真家で高山蝶の撮影でも有名な田淵行男氏のフィールドで、豊科には「田淵行男資料館」がある。連れ合いが『黄色いテント』(山と渓谷社刊)というエッセイ集を読んでいた。また、テレビ番組のドラマでもその活動が紹介されていた。ボクの両親の故郷・知床の斜里町には串田孫一が創刊した『アルプ』という山岳文芸雑誌の資料を集めた「アルプ美術館」という私設美術館がある。ボクたちのお気に入りの美術館で何度も訪れている。そこで田淵氏の高山蝶のスケッチを見ることができた。そんな縁も含めてフォトジェニックな山行であった。

 現在のボクは、観ることに関しては写真より絵画の人であるが、カラバッジョの明暗法(キアロ・スクーロは著名な映画撮影者であるヴィットリオ・ストラーロも映画撮影に取り入れている)、フェルメールのカメラ・オブスクラ(初期のカメラを自らの絵画表現に取り入れた)、ダ・ヴィンチのスフマート(重ね塗りで輪郭線を描かない技法で空気遠近法と呼ばれたりする)などは、その後の写真や映像文化につながる技術的アプローチである。
 ボクはロイスダールが描いたオランダの「雲」やターナーの絵画における「空気感」などが紡ぎ出す「気象」にも惹かれる。
 日々刻々と変化する山の自然に抱かれながらの山行は、ビジュアルとピクチャレスクな両面を味わいながら、岩稜の散策路を歩いている趣で、我ながら贅沢な楽しみ方だと思うのである。