「ガイドエッセイ『旅する阿寒』」カテゴリーアーカイブ

武四郎の足跡<ガイドエッセイ『旅する阿寒』第11話>

武四郎の足跡
■阿寒湖温泉に赴任当初、阿寒の観光資源を手探りで調べていたとき、ホテルで観光語り部をしているSさんと出会った。阿寒湖温泉の歴史や風土についてお話を伺っているなか、「俺の孫爺さんが松浦武四郎が来たとき案内した」と私にとっては衝撃の発言をされた。松浦武四郎といえば、どこか歴史の彼方の人という印象から一気にライブステージにワープした気分であった。これを機に釧路、弟子屈、阿寒のガイドや郷土研究者の知り合いに呼びかけて、松浦武四郎の勉強会を一泊二日で開催した。
■釧路阿寒紀行をまとめた『久摺日誌(松浦武四郎著)』(1860)は、全国にこの地を紹介した最初の観光ガイドブックともいえる紀行文である。これには記録メモである『戊午安加武留宇知乃誌』という野帖があって、さらに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859)という地図が揃うと、1858年の武四郎一行の足跡がつぶさに再現できることになる。
■勉強会の資料はそこそこ整ったが、なんといっても武四郎一行の止宿地(宿泊地をこういっている)を、武四郎紀行に縁のある方から直接ガイドされるという、魅力たっぷりのプログラムとなった。

武四郎が阿寒で詠った漢詩碑(ボッケ散策路)
武四郎が阿寒で詠った漢詩碑(ボッケ散策路)

■武四郎の人生の足跡をたどるため年表を作成した。その資料のタイトルを『青春の旅立ちから一畳敷まで~武四郎 起承転結・阿寒の巻~』とした。起承転結のコントラストが際だった71歳の生涯だったのである。お伊勢参りの旅人が往来する三重県松阪市小野江町に生まれた武四郎少年は16歳で家出放浪。旅人の芽が<起>きる。蝦夷地で探検家としてスーパーマン武四郎の<承>が絶頂を迎えた20代半ばから40代。開拓判官という要職につきながら、アイヌ政策等で対立し<転>じ下野する50代。そして全国を旅しながら登山や文化人との交流をとおし、その活動を全国の寺社仏閣91箇所から集めた部材で作った一畳の書斎(一畳敷)で<結>した晩年。そのなかで6度目の蝦夷地最後の釧路阿寒紀行は、探検家としての足跡のハイライトともいうべき41歳の春であった。しかし、私が武四郎にもっとも惹かれたのは、絶頂の蝦夷地探検時代以降の<転>や<結>の足跡であった。ちょうど私の退職や第二の人生設計、そして老後へと、これから歩む道が重なるので親近感を抱いたのかもしれない。
■晩年、武四郎は独創性にあふれた武四郎ならではの表現をしている。それが東京神田五軒町の庵に併設して建てた「一畳敷」である。晩年の終の棲家に併設された一畳の小宇宙からどんな世界を見渡していたのだろう。武四郎の遺言は「自分が死んだら、一畳敷の部材で焼いて、骨を大台ヶ原山(武四郎が晩年、踏査した三重の山)に散骨してほしい」というものであったが、幸いというか、本人は本意ではないかもしれないが、一畳敷は保存(国際基督教大学敷地内に現存)され、武四郎も墓に眠っている。
■青年期、武四郎は対馬から朝鮮への渡航を図るも失敗し、北方探検に転じたそうだ。もし、現代なら世界を旅して、ひょっとしたら宇宙までもと想像してしまうが、最後の旅路の終着点が一畳の畳に集約されるというのは、なかなか想像できるものではない。マクロからミクロへ、広大な北の風土と一畳のスペースに込められる物語の足跡。名作のラストシーンをおもわせる見事なエンディングではないか。

「山湖の道」で武四郎の足跡をガイドする筆者
「山湖の道」で武四郎の足跡をガイドする筆者

■資料作りで、武四郎の肩書きをまとめた。浮世絵師、登山家、北方探検家、ルポライター、地理学者、人類学者、民俗学者、イラストレーター、コレクター、旅行作家、名付け親、篆刻師、高級官僚、双六作家、アートプロデューサー、家出少年、旅人等々。かつて異才寺山修司は記者の質問で、職業をたずねられた時、「職業は寺山修司」と答えたそうだが、なるほど、武四郎も「職業は松浦武四郎」と言うにふさわしい人ではある。多面体は極めれば球体になるのだ。
武四郎の人生はドラマチックで起承転結に富み、自己劇化を図りながら、道を切り開いた演劇的人生といっても過言ではあるまい。これほどの人物があまり映画や演劇で取り上げられていないのも不思議なことである。
■さて、我々の武四郎の足跡めぐり勉強会は、その後、阿寒の仲間が中心となって古道の研究会、「阿寒クラシックトレイル研究会」に発展し、故郷の歴史を歩きながら掘り起こす活動を続けている。『久摺日誌』や武四郎の数々の記録には、釧路地方の豊かな地域資源、河川交通網の活用策など可能性が記されるとともに、阿寒の山河の景観や自然の豊かさが絶賛され、温泉に浸かり、「効能神のごとし」と温泉地としての可能性も予見している。「これほどの景観が自分の故郷にあれば、多くの人が押し寄せるだろう」とも記されている。
■観光客など外部の人から地域の魅力を再認識させられることは日常茶飯事である。地域住民が日々新鮮な刺激を感じ取るのはなかなか困難ではあるが、旅人たちは、その刺激をもとめてやってくる。我々もそれに応えるため、常々感性を磨いておきたいものだ。
■新しい道は、古い道をなぞるだけでは未来へ繋がらない。<新しい酒は、新しい酒袋に盛れ>とも言う。先人の足跡には、その起承転結を通し、人生観が垣間見える。晩年まで創造性を失わず、表現の歩みを止めることのなかった武四郎の足跡は、先行き不安の高齢化社会をともに生きるご同輩にも、過疎や地域格差に悩ましい地方にも、その足元を照らす希望の灯となるのではないか。

はじめに道(ル)ありき <ガイドエッセイ『旅する阿寒』第10話>

雄阿寒岳を臨みながら「山湖の道」を湖畔に向かう
雄阿寒岳を臨みながら「山湖の道」を湖畔に向かう

はじめに道(ル)ありき

■松浦武四郎の学習会を契機に、実際に武四郎の探訪ルートを歩いてみようと仲間たちと阿寒町から阿寒湖畔までのトライアルを平成25年(2012)の秋からおこなった。武四郎の『久摺日誌』は釧路を紹介した初めての旅行ガイドブックだが、その基礎資料である『東部安加武留宇知之誌』という野帳(トラベルノート)、そして膨大なアイヌ地名が記された北海道地図『東西蝦夷山川地理取調図』が、ルートを調べる道標となった。
仲間には、阿寒の地理や歴史を熟知した先輩や、武四郎の阿寒滞在時に孫爺さんが会っているというアイヌの古老もいて、歴史的な古文書に印された地名や人名が意外なほど今につながっていることを実感した。
■武四郎第6回目の安政5年(1858)の探検は最後の蝦夷地探訪となったわけだが、全行程203日、うち道東は23日間を要し、内陸調査のハイライトともいうべきものであった。
その道程の基本ルートとなったのは、幕府が北方警備のために釧路地方から網走に陸路でつなぐために開削した「網走山道」であり、武四郎は山道自体の利用実態調査もおこなった。
■阿寒町(旧シタカラ)から布伏内(フップウシナイ)の間は、旧雄別鉄道の線路跡があり、旧雄別炭鉱などとともに国の近代産業遺産として指定されている。もっとも、武四郎の地図に示された赤線(歩行ルート)は舌辛川左岸になっており、現在の道道の舗装道路の方がルート的には近いのかもしれない。しかし、武四郎が探訪した当時の面影を重視すれば現在の町道ルートの方が雰囲気なのである。
この部分は、古い順からいえば、アイヌが川筋に暮らし、網走山道が開かれて、武四郎が馬で通り(この区間は乗馬で飽別まで移動している)、そして明治後期からは和人の入植がはじまり、大正12年(1923)に雄別鉄道が開通、昭和45年(1970)に廃止後は町道として現在に至っている。これほど歴史の足跡が一本の道に刻まれているのも感動的だが、実際に歩いてみると随所にその面影を感じ取ることができる素敵な散策路なのである。
■松浦武四郎の探訪だけでなく、それに前後して、様々な郷土の歴史が刻印された道を歩くところから、阿寒クラシックトレイルという名称が生まれた。
_DSC0993クラシックという言葉は、音楽や競馬、ビールなど様々なイメージにつながるが、<歴史的に長く、評価の定まった物事を指して「クラシック」と呼ぶ。>とあり、まさにこの道はクラシックなのだと確信し、命名した。
歴史の掘り起こしを「歩く」行為をとおして、おこなうとともにこの道を新たな歩く観光資源として再構築することが我々の共通認識となった。全行程約60キロを3つの「道」に分割したのも、歩きやすさと、参加しやすい距離設定を考慮したものであった。阿寒町から飽別までの開拓された里の部分と阿寒川沿いの川の部分、そして山道の峠を越えて阿寒湖畔にいたる部分の3つが距離的にも道の個性的としても区分しやすく、それぞれ「里の道」「川の道」「山湖の道」と名づけられた。この命名に当っては取材してくれた新聞記者が分かりやすく名づけてくれたものをそのまま使わせていただいている。
■武四郎の野帳である『東部安加武留宇知之誌』の「留宇知」はアイヌ語のルウチ、峠の当て字である。「東の阿寒の峠越えの日誌」とでも訳せばいいのか。阿寒川を遡上し、支流に沿ってカルデラの淵から峠越えをすると阿寒湖が前方に右手には雄阿寒岳の雄大な姿を眺めならが阿寒湖畔への道をたどることになる。
硫黄を釧路に搬出するため、雌阿寒岳から鶴居の幌呂につながる約80キロの道は明治25年(1892)に完成するが、多くの民は釧路から阿寒までそれぞれの目的をもってこの道を歩いてきた。明治39年(1906)には阿寒の森林開発を目指して、前田一歩園創設者である前田正名がやってきた。正名がこの道から眺めた阿寒の風景は、後に「阿寒の山は伐る山ではなく観る山だ」と開発理念を転換したことにつながる印象を与えたのではないだろうか。同じ時期に、釧路第一第二小学校の学童たちは釧路から6泊7日で雌阿寒岳登山の修学旅行を敢行している。現在の観光地阿寒湖温泉の礎は、雌阿寒岳登山だったのである。
■大正13年(1924)に釧路湖畔間に車が通れる道が出来、昭和30年(1955)に、「まりも国道」が国道として指定されて、現在の道路の骨格が整った。
「道」は身体にたとえれば血管のようなもので、血管は太いものだけでなく、細い血管が隅々まで血液を運び、身体は健康を維持できる。今は歴史的な役目を終えた古道を新たな役目を得て甦らせる。道も人も地域の主役としていきいきとした風土づくりにつなげたい、「歩く」という観光文化を定着させたい、というおもいがつのる。

「山湖の道」でガイドをする筆者
「山湖の道」でガイドをする筆者

■はじまりの「道」はどんなものだったのだろう。アイヌ文化に詳しい仲間曰く「アイヌは人やけものたちが使っていた踏み跡を『ル』と言うんだ」。時に歴史は勝者や支配者の側から記されるものだが、無名の民や自然の中で共生する生物たちの視点から「道」をみわたせばそれは「ル」が出発点なのかもしれない。我々が阿寒クラシックトレイルという小さな試みに託した夢は、自然と人が共生する阿寒を未来につなげるために、先人達から学び、自分たちも一歩の「ル」を踏み出さなければならない、という決意表明のようなもの、だったのかもしれない。
ホテルウーマンの仲間が言った。
「そういえば、中国語でも道は『ルゥ』なのよね」
「足許から国際化ってことか?」
「<もう一歩、今が一番大事な時だ、もう一歩>というは、一歩園のモットーなので…」
「……」。

マリモの心 <ガイドエッセイ『旅する阿寒』第9話>

「迎える儀式」で年に一度、引き上げられるマリモ
「迎える儀式」で年一度、引き上げられるマリモ

マリモの心

<このマリモ阿寒の顔です、心です>
地域でマリモの保護活動をおこなっている「阿寒湖のマリモ保護会(設立昭和25年)」がつくった標語である。
「阿寒湖のマリモ」は国の特別天然記念物、いわば生物界の国宝であるが、植物としてのマリモ(糸状から球状まで)の生息域は阿寒湖に限らず日本国内、北半球をメインにして世界中にひろがっている。しかし、阿寒湖がとりわけ有名なのは、球状マリモのほとんど唯一といっていい生息地だからである。近年、もう一箇所の球状マリモの生息地アイスランドのミーバトン湖は、ほとんど絶滅状態とのことで、阿寒湖は、まさに世界唯一の球状マリモ生息地となりつつある。マリモは今も昔も、阿寒の顔なのである。
和名由来の「鞠藻」は鞠のような藻なので、球状鞠藻をイメージしつけられた文学的なセンスの名前なのだ。生物的には、糸状のものもマリモではあるけれど、マリモといえば丸いもの、というイメージが阿寒湖をして唯一のマリモ(球状)生息地としてのブランドを世界に発信することになった。
しかし、なぜ阿寒湖だけに球状マリモが生息しているかの謎については、近年、釧路市の若菜博士をはじめ多くの科学者の研究が進み、そのベールがひらかれてきた。大胆かつ、超簡単にまとめれば、阿寒湖を取り巻くさまざまな自然環境が織り成す奇跡の球体化現象とでも言えばいいのか。(もう少し色気のある表現でまとめたいところだが…)
以前は、「球体になるのに数百年を要し奇跡のマリモは誕生する」といわれた解説も、今は「条件が整えば数年間で直径十五センチほどの球状マリモに成長する」ということで、謎が解ければなんとやら状態である。しかし、科学的な解明を経て、さらに阿寒湖だけに球状マリモが生息する奇跡は、その希少性を高め、ユネスコ世界自然遺産登録への動きにつながってきたところである。
阿寒湖が紅葉に彩られる10月8.9.10日の3日間、阿寒湖最大の祭りである「マリモ祭り」が開催される。昭和25年(1950)に第1回なので60年を超える歴史の祭りである。
私が阿寒湖温泉で暮らして、もっとも誤解していたのがこの祭りであった。
<誤解その1>
私はこの祭りがアイヌの伝統的祭りとおもっていた。しかし、祭りの出発点は、当時、阿寒湖の水力発電による水位低下で湖岸に打ち上げられたマリモを湖に還すことと、そして、お土産品として全国に持ち出されて売買されていたマリモを湖に還すこと、この2つの湖への帰還運動をコンセプトにした自然保護思想をもった活動が契機であった。祭りを機に地域には「マリモ保護会」が発足し現在まで活動が続いている。
<誤解その2>
この祭りはアイヌと和人がこの主旨にそって、協同で演出し創作したものであった。当時のアイヌ文化への世間の理解度を想像すれば、誠に大胆かつ先駆的な試みだったのではないか。一時は「西の雪まつり、東のマリモ祭り」というキャッチフレーズがあったように、歴史浅い北海道の風土をうつしだした個性的な祭りとして誕生したのだった。
マリモをお土産物として売買した当事者や電力開発や資源開発に関わっていた方も地域にはいたのであろうが、自然保護や民族融和を地域のコンセンサスとして祭りのカタチに組み立てた先人達のセンスと努力に敬服する。

再生事業の安全祈願・シリコマベツのカムイノミ

マリモをアイヌは「トーラサンペ」と呼ぶ。「湖の御霊(妖精、時には妖怪のようなものといわれる)」といわれ、網に絡み漁の邪魔物として嫌ったものでもあるそうだ。「でっかいマリモを乾燥させて枕にした」という話も聞いた。アイヌにとってのカムイ(神)ではないのに、なぜ、カムイノミ(祈りの儀式)でマリモを崇めるのかが私にとって謎であった。
球状マリモ生息地で、過去の森林伐採の影響でマリモが絶滅したシリコマペツ湾に、最新技術によりマリモを復元する試みがはじまった平成21年のマリモ祭りで、祈念のカムイノミがおこなわれた。この時、おもいきってアイヌの方にこの私の謎をぶつけてみた。
「マリモを拝んでいるのではなくて、そのマリモを育む、水や湾や、森の神様に感謝して拝んでいるんだゎ。この祭りの発足時、全道のアイヌに参加を呼びかけて、これを機に各地のアイヌ同士の交流も生まれ、文化保存の動きにもつながったので、この祭りの意義はとても大きいんだゎ」。
マリモの保護を自然環境全体の保全につなげることを確認し、アイヌ文化をとおして、自然と人、アイヌと和人の共生を訴える、そんな大きな意義をもったマリモ祭り。
マリモは究極の「他力本願」の命だ。マリモは自力ではなく、周りが健やかで仲良く支えあって生きることを知らしめる「象徴」として、静かに阿寒湖の湖底に佇んでいる。
そんなマリモが年に一度「マリモ祭り」に陸に揚がり、人々に伝える「マリモの心」とは…。先人のおもいを知り、人と自然の共生のシンボル・マリモのメッセージに耳を澄ます祭りが今年も阿寒の秋を彩る。

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アイヌ地名を訪ねて<ガイドエッセイ『旅する阿寒』第8話>

阿寒川(奥)に合流する白水川(手前)
阿寒川(奥)に合流する白水川(手前)

アイヌ語は、通常、単語の意味の組合せで構成されることが多い。野鳥を例にとれば、アイヌ名がついたもので有名なのはエトピリカ。エトは嘴、ピリカは美しい、よって「嘴の美しい鳥」となる。エトピリカとともに、世界のバードウォッチャーが東北海道周辺でしか見ることのできない鳥として珍重するケイマフリも、ケイマは脚、フリは赤なので、「赤い脚の鳥」となる。
北海道をガイドする時、アイヌ語は動植物のみならず、風土を知る道しるべにもなる。
釧路から阿寒湖温泉までの国道240号(通称「まりも国道」)は自動車が通るようになる前から、人馬の往来があった道である。
1810年に幕府は北方有事に備えて、釧路と網走を陸路でつなぐ道として、山道を開削した。これを「網走山道」という。私は、阿寒の仲間たちと古道の研究会でこの山道跡を歩いているが、現在の白水フレベツ林道入口から約2キロほど先のイタルイカというところまでは、ほぼ現在の国道がこの山道と重なる。阿寒川と併行している経路であり、川沿いに道が拓かれていったのであろう。
安政5年(1858年)、6度目の蝦夷地探検における武四郎の探検調査目的の一つは、この網走山道の状況確認であった。
北海道のアイヌ地名を語る上で、武四郎は外せない。なんといっても六度の蝦夷地探検では、同行のアイヌ案内人とともに、約1万件にもならんとする地名を地図におとしている。1859年に発刊された『東西蝦夷山川地理取調図』は、武四郎蝦夷地探検の地図版集大成であるが、これは釧路市立図書館地域資料室で復刻版が閲覧できる。私も見せていただいたが、現在も使われているアイヌ地名が克明に地図におとされている。
アイヌ地名で特に登場頻度が高いのは、~ナイ、~ペッという川や沢を表す地名だ。阿寒にも布伏内(ふぶしない)、徹別(てしべつ)、飽別(あくべつ)、オンネナイ等、今も現役地名が川沿いの集落や河川名として活きている。ナイとペッの違いについては、ナイは小さい川で、ペッは大きい川だとか、穏やかなのがナイで、洪水で荒れる川をペッとつける等々、諸説あるが、地域差もあるようで、ここは研究者におまかせ。
さて、身近なアイヌ語学習の1丁目1番地はなんといっても「地名」である。国道を走りながら、時に古道を歩きながら、地理地形をあらわしたアイヌ地名を確認する事が出来る。

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手前はフレベツ川、奥が白水川

地名講座その一。同じ地名が全道各地にある例で、たとえば、「ワワウシ」という地名は、ワワは川を渡る、ウシは多い、よって<川を渡る人が多い処>という意味になる。阿寒川にも、支流の舌辛川にもワワウシという地名があり、なるほどそこは川を渡って対岸に行くのはもってこいの場所だ。
その二、もっと一般的なのは「ルベシベ」。北見地方に留辺蘂町があるが、<峠を越える道>の意味で、全道各地にある地名である。阿寒湖畔を越える山道にもルベシベがある。
自然ガイドをしていて、アイヌ地名の魅力を現場で実感する事がある。マリモ国道が阿寒の山に入ってから湖畔との中間あたりに阿寒橋という小さな橋がある。この橋は阿寒川に流れ込む白水川(しらみずがわ)に架かっている。白水川というのは和名で、アイヌ地名はワッカクンネナイという。ワッカは水、クンネは黒、ナイは川を意味するので、和名に直訳すると黒水川になるが、どういうわけか、和名は白水川なのだ。この川は雌阿寒岳東側中腹に源を発しているが、少し強く雨が降ったときは真っ先にこの川水が白濁して、というより泥水化して阿寒川に合流する。阿寒川本流は阿寒湖に源を発し、川の両岸は立派な河畔林が繁茂し、相当の降雨でないと濁らないので、この合流点で綺麗な阿寒川本流と白濁した白水川が合流し、ブラックチョコとミルクチョコのダブルチョコ状態になるのを何度も目撃した。
研究者曰く、和人は火山の噴出物で白濁した水を見て白水川といい、アイヌは川底の黒い安山岩を見て、ワッカクンネナイと命名。それぞれの感性の違いが現れている、とのことだが、確かに白っぽくもあり、黒っぽくもある川ではある。
この白水川沿いに白水フレベツ林道が通っており、山中に数キロ入ると、今度はフレベツ川が白水川に合流する小橋がある。冒頭に赤い脚の鳥(ケイマフリ)の名称由来をお話したが、フレベツ川はフレ(赤い)・ペッ(川)で赤い川である。この川は正確にいえば錆びた茶色に見える。上流にかつて渇鉄鉱の鉱山があったところで、鉄分が川底の岩に付着して錆色になり、川が赤く見えるところから命名されたことがわかる。このフレベツ川が白水川に合流するところが、まさに白い水に赤い水が流れ込んでいるようで、なんとも不思議な景色である。百聞は一見にしかず、とはこのこと。ガイド案内冥利につきる隠れた(誰も隠してはいませんが)名所ではある。

ロングトレイルで網走山道を歩き、阿寒川から支流沿いに坂を上り、ルベシベを越えると湖岸の阿寒川源流部である滝口につながる。滝口はアイヌ語でソーパロ。ソーは滝、パロは口なので直訳だ。阿寒湖の河口は細い入り江になっており、アイヌ語でクッチャロ、喉を意味する。屈斜路湖はもとより、釧路川口に開かれた釧路の地名由来の一つでもある。
私が和人とアイヌの自然のとらえ方の違いを知ったのは、和人は川を下る視点から右手を右岸、左手を左岸というが、アイヌは川を上る視点で右手を右岸、左手を左岸、そして、人体にたとえて河口から喉をとおり、湖に入っていく方向感だ。
どちらが正しいとか、間違っているとか、統一すればいいとかの問題ではない。この違いこそ多様な価値観や感性を認め合い、<人と自然>や<人と人>が共存する上でベースとなるものとおもう。角度が違えば、白も黒に、右も左になるわけで、多様な価値観の源をアイヌ地名から教わるのである。

マルチワーク<ガイドエッセイ『旅する阿寒』>第7話

マルチワーク

スキー大会は阿寒のマルチワーカーたちで運営される
スキー大会は阿寒のマルチワーカーたちで運営される

湿原で修学旅行の生徒たちを案内するのは新米ガイドにとっては難関である。
釧路まで本州から修学旅行にやってくる学校は、私立の進学校であることが多い。小さい頃から受験競争にさらされて来たであろう若者達に一時の湿原散策を記憶に留めてもらいたいとおもう。
生徒をガイドするとき意識的に話すことがある。湿原の動植物の「適応」と「競争」についてである。釧路湿原には地球最後の氷河期であるウルム氷河期が終わる約1万年以上前から、地続きだったシベリア大陸から渡ってきた動植物が命をつないでいる。「氷河期の生き残り」とか、遺存種ともいわれる生物達である。これらの生物達は大陸が海で分断された後も北海道でも特に冷涼で厳しい環境である高山や湿原でその環境に適応し、生き延びてきたものである。生物の世界では、弱肉強食が支配する世界があると同時に、厳しい環境に適応する世界もある。ともすれば、地味で目立たない動植物のなかにしぶとい猛者がいる。生徒たちにはそんなことを話しながら、「競争原理だけでなく、環境適応というのも忘れないで」と話をする。
7月になると阿寒湖畔も初夏の訪れと観光シーズンの到来を実感する。通勤前の早朝散歩には最適の季節だ。早朝6時過ぎにボッケ散策路に向けて商店街を歩いているとお土産店が店先の扉を開けて開店準備をはじめている。そんな店舗の先陣を切ってNさんが店を開ける。Nさんは商店街や観光協会の役員を務める湖畔のキーパーソンのひとりである。率先して朝早くから深夜まで店を開く。観光客へのホスピタリティの最前線である。
Nさんはマルチワークの人である。Nさんの働き方に阿寒湖温泉という風土のある典型をみるおもいがする。お土産物店を生業としているが、冬期間は国設阿寒湖畔スキー場の場長になる。さらに、秋には、阿寒の森を管理する前田一歩園の作業員として毎木調査をおこなう。春夏はお店、秋は林業、冬はスキー場と季節に仕事が替わる。もちろんお店は通年営業、家族経営だ。
さらに町内会活動と地域の消防団長というボランティア活動が加わわるマルチぶりである。
阿寒のスキー場が国際的な大会を実施してることは、阿寒に暮らし大会の運営に携わるようになって知った。FIS(国際スキー連盟)の公認大会が年に2.3度おこなわれる。大会誘致の決め手は、評価の高い雪質と大会の充実した運営体制である。
スキー大会は、阿寒湖温泉のマルチワーカー達が運営を支えている。ホテル旅館関係者、消防職員、教員、御土産店、お菓子屋、飲食店、主婦、観光協会スタッフ、公務員等々。それぞれが記録員や旗門員、コース整備など国際基準にそった役割分担をこなし、大会は成立する。
スキー大会はひとつの例である。阿寒湖温泉という風土を支える主要産業である観光業は観光客によって成り立っている。スポーツ大会参加者や合宿の学生を観光客と呼ぶのがちょっと違和感があるとすれば、交流市民によって成り立っているといったほうがしっくり来るのである。
阿寒湖の定住者は、明治期の漁業、林業、鉱業(硫黄)開発に遡り、その後、観光産業が主力になっていく。アイヌにとっても、阿寒湖畔は定住地ではなく季節的な狩猟採集の場所であった。ともに定住市民として生活の基盤をつくっていくのは明治後期からで、現在の住民も二、三代目が主力である。
現在、観光産業は阿寒湖温泉の風土を支える基盤であり、そこに生きる人々のセーフティネットである。そして、マルチワークは働き方であり、生き方でもあるようにおもう。
公務員という終身雇用の総本山のような労働環境に生きてきた私にとっては、四季の変化のみならず、観光トレンドの変化に揉まれながらも、暮らしを維持していくマルチな適応力に感動すら覚える。
もとより、現実の阿寒湖温泉は平成10年(1988)に百万人を超える年間宿泊者数を記録してから、減少傾向をたどり、平成26年(2014)には60万人となり、約半分に近い減少である。定住人口も昭和60年代の約3千人をピークに、平成26年には13百人まで減少した。この間、観光産業は多様化し、全国何処も観光地となり、一方で国際化と少子高齢化が顕在化し、昔から観光を生業とした阿寒湖温泉のような温泉観光地はどこも社会の変化への適応と地域間競争にさらされてきた。
阿寒湖は冬凍結する。液体が固体に変化するのは大変なことである。生活の基盤に影響があるだけでなく、風土が育むメンタリティにも影響を及ぼすものではないか。景気のよかった時代には冬眠を決め込んでいた先輩たちは、今では漁業も遊覧船も、そこで働く人々も冬は氷上レジャー業やスキー場などに職場を移す。風土の条件に合わせながら、風土を守っていく暮らしは、外部から見ている以上に大変なことだ。
マルチワークは持続可能な地域社会づくりの上で重要なキーワードの一つだとおもう。季節に合わせて、ニーズに合わせて、働き続けることの出来る環境を作っていくためには、地域の知恵と既成社会とのバランスをとりながら、目指すべき地域の未来像が共有されていなければならない。
地方創生が叫ばれる一方、消滅自治体という言葉が現実味を帯びてくる。持続可能な地域社会を構築するためには、自己のスキルアップとマルチワーク環境の拡充という両輪が推進力なのではないだろうか。
マルチワークは、現実に適応していくための生き方である。昔からお百姓さんは、その名のとおり四季の気候にあわせた百のスキルを有するマルチワーカーだったのである。
地域づくりは人づくりとよく言われる。軽々に人づくりと言うことに何かしらの抵抗感がある。まずはマルチワーカーとしての自覚と自己努力(スキルアップ)を己に課したい。地域も人も、競争力(ナンバーワン)より個性(オンリーワン)を磨きたい。