「武四郎逍遥」カテゴリーアーカイブ

〈第二巻〉②歩く文化を楽しみながら

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル〉

国道240号(まりも国道)のイタルイカオマナイ沢からは北電の送電線ルートが一番武四郎ルートに近い(「山湖の道」)。扉写真は旧上飽別小学校を借りて行った宿泊イベントでカピウ&アパッポの焚火を囲んだコンサート。

▶武四郎足跡研究会ではなく、「阿寒クラシックトレイル研究会」としたのには意味があった。たしかにきっかけは武四郎で、ベースの情報も武四郎の探査がメインではあったが、調べていくうちに、武四郎も幕府が19世紀初頭に北方警備のため切り拓いた「網走山道」の実態調査が探査の目的の一つであり、その道は、アイヌが湖畔を狩場として使うにあたっての道でもあり、さらに遡れば獣道でもあったところだった。
時代を現代に戻せば「里の道」などは雄別鉄道路線跡。さらには国道240号マリモ国道そのものが武四郎の歩いた道にほぼ沿ってつくられているなど、時代の層が幾層にも重なった道であることを知った。これぞクラシック!

旧雄別鉄道跡は現在、市道で国の近代産業遺産に登録されたルート。ホルンナイという岩穴のある処で、ここに伝わるアイヌの小人伝説を解説。(「里の道」)


▶研究会のメンバーは湖畔在住の自然ガイドやアイヌコタンでアイヌ料理を営むもの、前田一歩園財団、ホテル従業員など、30~40代のこれからの阿寒観光を担う世代。新しい観光文化としての〈歩く観光〉を意識した商品開発も目標の一つと位置づけた。
まさに古きを訪ね、新しきを知る、「温故知新」をポリシーにした。
阿寒湖温泉は北海道を代表する温泉観光地の一つだが、これまでのイメージが固定化し、なかなか新しいイメージを打ち出しにくいのが現状だ。豊かな自然を活かしたアウトドア基地阿寒を目指して、この研究会の活動が少しでも観光振興につながるように様々な試みをした。
3つのルートの日帰りイベントを基本に、昔、コタンがあった飽別では旧小学校を借りて宿泊イベントを行った。阿寒湖アイヌコタンの古老に昔のコタンのお話をしていただき、アイヌの伝統音楽を継承する「カピウ&アパッポ」のコンサートも焚火を囲みながら行った。


▶近年、フットパスやロングトレイルが各地で生まれてきている。道東でも、厚床をはじめとする根室地方のフットパスや北根室ランチウェイのロングトレイルなど魅力的な歩く場所が生まれているが、我々はその原点を「はじめにルありき」と表現した。つまり、アイヌ語で〈ル〉、人や獣が踏み分けた道が原点にあるということだ。北海道の歩く道は、アイヌ地名に呼応する豊かな自然の多様性に溢れているとともに、開拓の歴史を風土に刻んだところが特徴だ。時代に則した新しい活用方策を考えていきたいと思った。(続く)

「山湖の道」の峠越えの道はルベシベと日誌に記され、その頂上部は標高620mのルチシ(峠)だ。阿寒湖の湖面が遠望でき、ゴールは近い。

〈第二巻〉①武四郎との衝撃の出会い

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル〉

松浦武四郎、60歳時(松浦武四郎記念館提供)

▶昔から武四郎に興味が有ったわけではない。平成21年、勤務地の異動で阿寒湖温泉に赴任した時、ホテル鶴雅の語り部をされていた千家さんと武四郎のお話をさせていただいた。話しているうちに、「武四郎が釧路に来た時、布伏内でとまった処はオレの孫爺さんのところだ」というボクにとっては衝撃の告白が出て、歴史のなかの人物が、今の時代にもつながっているのを実感した。釧路や阿寒、弟子屈のガイド仲間や研究者に声がけして、千家さんに武四郎ゆかりの場所をご案内していただき、1泊2日の学習会を開いた。このあたりが深みにはまる1合目といったところだったろうか。
学習会の資料集めをした。そのなかに『幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷』(ⅠNAⅩ出版)という本があって、武四郎は晩年、ゆかりの寺社仏閣の部材を集めて一畳の書斎をつくったことが紹介されていた。このセンスに大いに刺激された。
人間の活動を起承転結にたとえれば、ボクはちょうど〈転〉から〈結〉に向かう時期だ。人生の〈結〉をどう迎えるかに興味があった。また、齢を重ね、〈われわれは何処からきて、何者で、どこに行くのか〉という命題にも整理をつけた晩年をむかえたいとおもっていた。

▶武四郎の釧路の足跡を整理するため『久摺日誌』の現代語訳と『東西蝦夷山川地理取調日誌第8巻 東部安加武留宇知之誌』(秋葉実解読)を教科書に足跡をたどることにした。
これにさまざまな関連書籍やインターネット情報、そして千家さんやガイド仲間たちの情報をまとめ、フィールドで検証した。『久摺日誌』はこの地を最初に紹介した観光ガイドブックという意味で周知であったが、戊午日誌や『東西蝦夷山川地理取調図』という地図など、まさに足跡をたどる必携図書に出会い、この後、ガイド仲間と実際にフィールドを歩くということにつながって行った。
阿寒の仲間を中心に阿寒クラシックトレイル研究会を立ち上げ、実際に阿寒町から阿寒湖温泉までのルートを歩くイベントを開催した。全長約60㎞ですべてを一気に歩けるのは武四郎くらいなので、このルートを3つに分割し、阿寒町から上徹別までを「里の道」、上徹別からイタルイカオマナイまでを「川の道」、イタルイカオマナイから阿寒湖畔までを「山湖の道」として、ロケーションにあわせたネーミングで歩くイベントを開催した。

阿寒クラシックトレイル60kmの全行程図(電子地形図25000(国土地理院)をクスリ凸凹旅行舎が加工して作成)

歩く文化を楽しみながら伝えるために
▶武四郎足跡研究会ではなく、「阿寒クラシックトレイル研究会」としたのには意味があった。たしかにきっかけは武四郎で、ベースの情報も武四郎の探査がメインではあったが、調べていくうちに、武四郎も幕府が19世紀初頭に北方警備のため切り拓いた「網走山道」の実態調査が探査の目的の一つであり、その道は、アイヌが湖畔を狩場として使うにあたっての道でもあり、さらに遡れば獣道でもあったところだった。
時代を現代に戻せば「里の道」などは雄別鉄道路線跡。さらには国道240号マリモ国道そのものが武四郎の歩いた道にほぼ沿ってつくられているなど、時代の層が幾層にも重なった道であることを知った。これぞクラシック!
研究会のメンバーは湖畔在住の自然ガイドやアイヌコタンでアイヌ料理を営むもの、前田一歩園財団、ホテル従業員など、30~40代のこれからの阿寒観光を担う世代。新しい観光文化としての〈歩く観光〉を意識した商品開発も目標の一つと位置づけた。
まさに古きを訪ね、新しきを知る、「温故知新」をポリシーにした。

▶阿寒湖温泉は北海道を代表する温泉観光地の一つだが、これまでのイメージが固定化し、なかなか新しいイメージを打ち出しにくいのが現状だ。豊かな自然を活かしたアウトドア基地阿寒を目指して、この研究会の活動が少しでも観光振興につながるように様々な試みをした。
3つのルートの日帰りイベントを基本に、昔、コタンがあった飽別では旧小学校を借りて宿泊イベントを行った。阿寒湖アイヌコタンの古老に昔のコタンのお話をしていただき、アイヌの伝統音楽を継承する「カピウ&アパッポ」のコンサートも焚火を囲みながら行った。
近年、フットパスやロングトレイルが各地で生まれてきている。道東でも、厚床をはじめとする根室地方のフットパスや北根室ランチウェイのロングトレイルなど魅力的な歩く場所が生まれているが、我々はその原点を「はじめにルありき」と表現した。つまり、アイヌ語で〈ル〉、人や獣が踏み分けた道が原点にあるということだ。北海道の歩く道は、アイヌ地名に呼応する豊かな自然の多様性に溢れているとともに、開拓の歴史を風土に刻んだところが特徴だ。時代に則した新しい活用方策を考えていきたいと思った。(続)

雄阿寒岳と阿寒湖を見下ろす絶景の展望地で昼食(山湖の道)
紅葉の阿寒川を遡上します(川の道)

〈第一巻〉③古の旅人におもいを馳せて

第一巻        蝦夷地探訪の先駆者たちが行き交う〈西と東蝦夷地を結ぶ道〉~直別から白糠・庶路へ

「尺別の丘」から音別・白糠・釧路をのぞむ。表紙絵図は目賀田守蔭による白糠の図(『北海道歴検図』1870)北海道大学北方資料データベース

▶探訪ツアーに戻ろう。海岸線から釧路の方向に向かって古の旅人を思いながら散策した。海岸線に並行して川が流れており、その川を渡り、浜に出ることが難しかったので、その内側のヨシの繁茂した自然堤防を歩いた。このように川がストレートに海に流れ出ることができず、狭い海岸砂丘の後ろを流れ、大きな川の河口に合流する地形がある。
アイヌ語にコイ・トゥイェ(波が・破る)という地名がある。海の波が荒い時に砂丘を破って川に流れ込むところから由来しているとのこと。道東にも野付半島の付け根と白糠の海岸線にこの名前が残っている。特に白糠の海岸線の「恋問」には現在、人気の〝道の駅〟があり、コイトイ川も河口で庶路川に合流している。
恋問というあて字は、恋人同士が海岸を散策する様を連想させて悪くないが、この由来を聞いたらちょっとがっかりするかもしれない。
稚内のコイトイは声問とあて字され、苫小牧には小糸井という地名があるそうだ。いずれも同じ由来。

海岸沿いに平行してキナシベツ川が奥の直別川の河口に合流する

▶松浦武四郎は1841年の1回目、1856年の4回目、そして1858年の6回目、都合3度にわたってこの海岸線を歩いている。1回目と4回目には尺別の通行屋に宿泊している。
音別市街地から国道38号を西に2キロほど行くと左手に火葬場の看板があって、細い脇道がついている。ここを百メートルほど上り、火葬場の駐車場に車を止め、丘の頂を目指して5分ほど歩くと音別八景の一つ「尺別の丘」(標高50m)に着く。太平洋の雄大で地球が丸いことを実感させる水平線を眺めながら、海岸線の景色と絵図に描かれた通行屋のあった処を照らし合わせる。
武四郎の最初の蝦夷地探訪記録である『蝦夷日誌』には…
「此所広々たり場所南向海に沈み北の方岡山樹木なし、海浜惣じて玫璁尾鼠萩井に柳葉菜花蘆荻にて多し、其余目に見なされる草多し……夷人〔アイヌのこと〕小屋七八軒あり。シヤクヘツ訳して夏川と云り、シヤクは夏也、ベツは川なり」と記している。

「尺別の丘」から白糠方面を望む。奥に釧路の街並みも見える。手前の沼のような河口形状が音別川

▶渋江長伯一行の調査に同行した絵師・谷元旦の『蝦夷奇勝図巻』に描かれたシヤクベツには、海岸沿いの小山の陰に通行屋と数件の小屋、丘に登る山道が描かれている。
この絵と照合するため、松浦武四郎の4回目の探訪記録である『竹四郎廻浦日記』〔竹四郎は武四郎の別名〕から音別と尺別の記述を抜き出してみたい。この時の探訪ルートは道北から網走、斜里を経由し、根室を周って箱館に戻る帰路にあたる。手前の音別からの部分を抽出すると…
ヲンヘツ
川有幅二十余間〔一間は約1・8m〕船渡し、川向近年迄土人〔アイヌのこと〕小屋四軒有、当時二軒シヤクヘツより出張す、此川鮭、鱒、鯇〔アメマスのこと〕、桃花魚、チライ〔イトウのこと〕等多し、越て崖の下に出廻りて川有幅七八間遅流形也、此辺の川何れも波浪有る時は川尻さまざまと切口変ずるが故に甚危し、何も此場所船渡し守ちんせん一ケ月銭六百文の由也

シヤクヘツ
番屋立継通行屋一棟(二十四坪)制札〔禁制、掟などを書いた掲示板〕、板蔵、厩、茅蔵二棟、上に稲荷社有前平地にして谷地多し、其傍に夷人小屋九軒……引越さし有る也、其傍に野菜もの少々作て有り、前に標柱 白ヌカ〔白糠のこと〕よりチユクヘツへ十三丁〔一丁は約109m〕有。

谷元旦の描いた尺別(『蝦夷奇勝図巻』1799)引用:「釧路の近世絵図集成(釧路叢書)」より
シャクベツ番屋の図(楢山隆福著『東蝦夷地与里国後へ陸中道中絵図』1810)函館市中央図書館蔵

▶この記録は1856年の探訪時なので、谷元旦の絵図や『陸地道中絵図』からは50年ほど後になるが、記録と照らし合わせるとアイヌの住居と稲荷社が増えている。アイヌの住居が9軒なので結構なコタンが形成され、小規模な農耕の様子も伺える。文中の「引越さし有る也」はよそから移って(移らされて)きたとのこと。尺別が労働力として人を必要としていたことか。
目の前に開かれた景色と角度は違うが、絵図と武四郎の文章を照らし合わせながら、しばし江戸時代の情景をオーバーラップさせた。
▶音別はオムペッ(川尻が・塞がる・川)という説とオンペッ(腐・川)、木の皮を水に浸し腐らすという説があるようだが、前者の説を裏づけるような音別川の河口の砂地で塞がったようすが尺別の丘から見れる。
尺別川はなぜ夏の川なのか? アイヌ語に詳しい仲間が夏になると水が乾く(サッ)と同音に近い夏(シヤク)又は無い(シヤク)が由来のもとになっている話をした。
ちなみに直別川は秋の川で、アイヌたちは秋にこの川に来て魚を獲り、食したことを示す、という解説もあるが、道内各地にある同名が何故秋なのかの意味は不明だそうだ。榊原さんもこの川を鮭やシシャモが揚がる秋の光景を見て育ったそうだ。
シシャモはアイヌ語のススハム(柳の葉)が転訛したもので、今でも「柳葉魚」と表記され市場に出されたり、商品名に使われている。世界でも北海道太平洋沿岸を唯一の母川としているので、この沿岸はシシャモの産地である。
尺別の丘からは西にトカチ境の直別川、そして東の方向には白糠そして釧路の街並みも遠望できる。この海岸線沿いが蝦夷地の西と東を結ぶ黎明期の道であったことを実感する。
先人達が行き来した様に思いを馳せた。(終)

シラヌカの図(『東蝦夷図巻』仙台藩関係者1857)白糠は道内で最初に採炭された石炭岬がある。図中にも「岡ノ中腹石炭多シ当巳年ヨリ」採炭するようになったと記される。北海道大学北方資料データーベース
ツアーの行ったところ案内図(電子地形図25000(国土地理院)をクスリ凸凹旅行舎が加工して作成)

日誌からみる武四郎の人となり

■ドナルド・キーンが亡くなって、あらためて 『百代の過客<続>』 を読み直し、氏の日本における日記文学への深い眼差しに興味惹かれた。 キーン氏は同書に武四郎を取り上げ、 「アイヌ民族の権利の、力強く、そして説得力のある擁護者としての姿が、文中から立ち現れてくる。」と 武四郎を評し 、また日記が武四郎自身の人となりを自ずと語ってくれているのが面白い、と述べている。
■ 現在、私は仲間との勉強会「武四郎を読む会」で、武四郎の日誌『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』を解読しているが、そのなかでも、そのことを納得するような件があった。勉強の対象テキストである『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』は在野の武四郎研究者であった秋葉実さんの解読による著書で、現在、読み合せているのは1858年、武四郎第6回目(最後の)蝦夷地探訪の部分である。「戊午久須利日誌」と題され、後に刊行本『久摺日誌』として紹介される釧路から阿寒湖畔、網走、斜里を巡り、摩周、弟子屈を経て釧路に戻るまでの日誌部分である。
■ ご存知のとおり、武四郎の旅はアイヌの案内人の同行があってはじめて成立したもので、依頼者とガイドとの関係性もガイドである私にとっては興味のあるところだ。今回、ご紹介するのはこの日誌の塘路泊を記述した個所で、武四郎とアイヌ案内人とのつながりと旅仲間に対する眼差しの優しさにいたく感心したのである。同文箇所の秋葉解読文と私の訳文を以下に示す。

上段:『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』部分抜粋 下段:塩による訳文

■ ここで共感するのは、武四郎のマメな優しさ、上下関係より仲間関係重視、郷愁に対する感性、武四郎の旅のイメージなどであるが、ガイドの疲労に配慮して自らが米を研ぐ武四郎の姿勢は、彼の繊細な心遣いを表している。まさに寝食を共にして、苦難に満ちた蝦夷地探訪をアイヌ案内人とともに成し遂げた基本姿勢である。
また、ケンルカウスがイトウをさげて現れた様を「生涯の話の種に」という件には、エピソードの積み重ねのなかに旅の価値を認め、現場のなかの事実を積み上げながら、真のアイヌの姿に触れようとした人となりが垣間見れる。
■ 尊王攘夷論者として対ロシアから蝦夷地を守り日本がこれを統治する武四郎の考えには揺るぎはなかったのであろうが、武四郎のおもいどおりにアイヌを同化させることにはならなかった失敗談のエピソードも日誌には綴られていて、武四郎自身の揺らぎや困惑も垣間見れる。私が武四郎に学ぶのは、思想的影響をうけながらも、現地現場でそれを補正しながら真実を見極めようとする姿勢である。

マクンペッ探訪記

古におもいを馳せるマクンペツ探訪のはじまり

釧路湿原の東側に位置する塘路湖の近辺に、地元の方たちが古川と呼ぶ、河川跡がある。松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調日誌』によれば、マクンベツ及びマクンベツチャロとして紹介されているあたりとおもわれる。アイヌ語ではマクン〔mak-un〕奥の、奥にある、ぺッ:川となるのだろうか。ガイド仲間と一緒に1月下旬に探訪した。事前情報は、武四郎の勉強会の仲間が提供してくれた、古い写真である。1948年の空撮写真にはまだこの川が写し出されている。

1948の写真には流れがあったマクンペッ
これは2000年の写真。すでにマクンペッは枯れている。

当日は晴れた午前中で、まだ雪も深くなかったので長靴での探訪となった。川跡は確かに雪に埋まってはいるが明らかに蛇行する川であることが確認できる。土手には柳やヤチダモが多く繁茂し、カラ類の野鳥が頻繁に行き来する。蛇行するマンクベツを釧路川本流との合流点まで進み、折り返し、ヨシ原を抜けて再びマクンベツの凍結した流れに合流し、今度はアレキナイ川の合流点まで進む。この間は、ヤチダモの高木が多く、キツツキ類(アカゲラ、オオアカゲラ)が目につく。塘路湖と釧路川をつなぐアレキナイ川は冬も凍結しない流れを保っている。
ここから、いつもは釧網線の車窓から眺める、エオルトー、ポントーと呼ばれる湖沼の凍結した氷上を歩き、出発点に戻った約2時間のトレッキングとなった。

武四郎は日誌に、マメキリの乱(1789年のクナシリ・メナシの戦い)でこれに味方しなかったクスリアイヌをネムロ、クナシリのアイヌが追ってきたが、クスリアイヌはこの川に逃げ込み、追ってきたアイヌたちは釧路川を抜けていったので、クスリアイヌたちは助かった旨のエピソードを記録している。確かに本流も相当に蛇行しているのに加え、マクンベツがエスケープルートになって、周辺には小沼も点在しているとなれば、当時の湿原での追跡劇も目に浮かぶ景観である。

丸木舟ではなくカヌーがゆったりと釧路川を流れていきました

私は、冬のトレッキングルートの一つとして今シーズンから既に何度かお客さんをご案内している。時間にあわせてショートカットも出来るので、冬ならではの湿原ウォークを楽しむには魅力のコースである。ここでその昔、こんな物語が展開していたとは…。湿原らしい景観と環境、動物たちとの出会い、そしてアイヌたちの目線で歴史のひとこまにふれる。